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解明:毛沢東の死体保存実験のため 受刑者を緊急死刑

2016年07月29日
解明:毛沢東の死体保存実験のため 受刑者を緊急死刑

【新唐人2016年7月29日】

1976年9月9日、中国共産党の元党首、毛沢東が亡くなった。当局は、毛の死体を永遠に保管するため、取り急ぎ一人の受刑者を死刑に処し、死体を新鮮に保管するための実験に使用した。

 

書籍『十年間の夢――徐景賢の文化大革命の回想録』の中で、著者の徐景賢氏は中国共産党当局が毛沢東の死体を保管しはじめた当初の、人にあまり知られてない内幕を披露した。

 

著者は、書籍の中で、次のように述べている。 ― 毛沢東が亡くなった当日、基礎的な防腐処理として、毛の血管にはホルマリン、酢酸カリウム、グリセリンとアルコールなどの薬物が注射された。

 

同時に、中共中央は即時に他の国に遺体保管方法を学ぶよう要求した。毛が亡くなって3日目、中国側は北京医学院院長の林均才の率いる6人の代表団をベトナムに派遣し、胡志明の遺体保管方法を学ばせた。
 

当時、上海も遺体保管の研究チームを結成し、著者が責任者に任命された。ある日、当時の中共衛生部部長の劉湘屏から、「上海で新鮮な死体を見つける必要がある、死亡後、即時に石膏の顔立ちモデルを取り、永遠に保存するよう」、通知があった。なぜなら、遺体を保管するには、今後の変化を観察し、比較できる「基準体」が必要だったからである。しかし、毛の顔に対して、何回も石膏モデルを取る試験をすることはできない、更に顔に傷をつけてはいけない。よって、上海で新鮮な死体に対して試験をして、実験結果を得ることになった。
 

注射で死刑を執行し新鮮な死体を獲得
 

著者は次のように述べている。 ― 当時、彼らは、「裁判所で死刑を言い渡された死刑犯の中で、直ちに一人を死刑に処し、その新鮮な死体で実験を行うことを決めた。そして、私は市公安局の責任者、薛さんと成虎さんの2人を呼んできて、この極秘の任務に配置した。彼らは、もし銃殺すると血が流れて、容貌が変わるので、法医と相談して、薬物注射で死刑を処する方が妥当だと提案した。充分に準備してから、裁判所の人と一緒に刑務所に行き、死刑犯を迎え出した。それから、刑場に送るのではなく、護送車の中で、医者が注射する方法で、死刑を執行した。聞いたところでは、死刑犯は注射して間もなく穏やかに死亡した」という。

 

著者は、書籍の中で、「護送車は死体を直接、龍華火葬場に送った。死亡手続きが終わると、再び上海第一医学院に火葬場に行き、正当なルートで死体を受け取るよう通知した。この難題はこうして落着した。これは恐らく中国の歴史上始めて注射で死刑を執行したことになるかもしれない。しかし、当時は絶対的な秘密だった」と語っている。
 

遺体保管に関する再考
 

著者は、次のように述べている。「その後、天安門広場に『毛主席記念堂』を建設し、『一号工程』というコードを付けた。国は巨大な人力、物力、財力を尽くして、遺体保管の規範化されたシステム工程を形成し、かつ膨大な科学研究基地を設立した。私が体験した遺体保存作業は、極めて短い期間であり、氷山の一角にすぎない。しかし、この短い体験は私に以前敢えて考えられなかった問題を考えられるようにさせた。例えば、レーニン、スターリンと毛沢東の遺体が長期に保存されている以外に、世界にはまだ他に党の指導者の遺体が長期保存されていた。すなわち、かつてブルガリア共産党の総書記、部長会議主席、第三インターナショナルの執行委員会の総書記を務めたディミトロフ、かつてチェコスロバキアの共産党中央書記、大統領を務めたゴットヴァルト、かつてモンゴル人民党の指導者、人民軍総司令官を務めたスクバータ、かつてベトナム労働党の主席、共和国主席を務めた胡志明、かつて朝鮮労働党総書記、共和国主席を務めた金日成、かつてガイアナの共産党指導者を務めたフォーブス.バーンハム、かつてアンゴラの共産党指導者を務めたアゴスティーニョ・ネトらである。

 

著者は改めて考えた。なぜこれらの長期に遺体を保存されているのはみな共産党の人なのか?共産党は最も唯物主義を唱えるが、遺体を長期保存するのは徹底的な唯物主義なのか?民族と国家の傑出した指導者を追想するのは人類共通のことである。そうであれば、科学技術と医学研究方面で進んでいる多くの国では、なぜ指導者の遺体を長期保存しないのか?

 

著者は書籍の中で、「以上は、当時の私の考えではない。それは後の考えである。だから、現在もし私に指導者の遺体の長期保存について聞かれたら、私の答えは、一、賛成しない、二、すでに保存している遺体については、各国の人民に決めてもらう」と書いている。

 

徐景賢(1933-2007)氏は、上海奉賢の人。1967年2月から1970年3月まで上海市革命委員会の指導メンバー。1970年3月から1971年1月まで上海革命委員会副主任を務めた。1971年1月から1976年10月まで中共上海市委員会常務委員、市委員会書記、上海市革命委員会副主任を務めた。「文化大革命」の間、罪を犯したため、1976年10月に逮捕された。1992年6月に服役中重病のため一時出所された。2007年10月31日に上海で病気で亡くなる。享年73歳。

 

http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2016/07/12/a1275560.html(中国語)

 

(翻訳/廉)

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