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「清華大学の物語」第3話 暗闇の中での星の光【世事関心】

2017年01月13日

【新唐人2017年01月13日】

 

虞超(ぐ ちょう) 清華大学精密機器学部1995年卒業:「この一歩を踏み出せば、私たちの人生が根底から変えられてしまう。」

 

劉文宇(りゅう ぶんう) 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「本当は八時になった時に、すべてを投げ出すともう決めていたのでした。」

 

黄奎(おう けい) 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「役人にはっきりと言われました。国家信訪局(直訴を統括する組織)は地獄の入口で、入れば少なくとも3年間の労働教養を課せられ、毎日砂運びをするのだと」

 

王為宇(おう いう) 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「学業はもうここまでだと覚悟しました。『わかりました。』と言い、手を振ってその場を去りました。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「政府は法輪功を弾圧し始め、多くの学生が宿舎から追い出されました。清華大学の北門の外側には当時、たくさんの平屋がありました。天井が低くて、湿っていて、夏になると蚊が多いこの平屋へ、皆は引っ越すことにしました。すでに就職し、中古の車を持っていた私は、引っ越しを手伝いました。王為宇と一緒に、本や夏ござを車に詰めこんで北門の外の平屋へと運びました。今でも覚えています。天井が低く、扉に目隠しの布がかかっていたあの部屋を。私は夏ござを抱えて、彼の後について、部屋の中へと入って行きました。この日が私が王為宇と初めて関わりました。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「法輪功を学び始めた時、自分たちのためにとても役立つものだと感じていました。しかし状況は変わり、法輪大法が誹謗中傷され、同修が不当な扱いを受けたり違法逮捕されたりするようになりました。状況がいい時は我先にと殺到し、悪くなったらみんな消えるなんてあり得ない。そんなことはできません。」

 

兪平(ゆ へい) 清華大学熱工学学部1997年博士課程:「そこに座った瞬間、時間が止まりました。私は大声で『法輪大法は無実です』、『李先生は無実です』と叫びました。この声は心の底から湧いて来たものでした。」

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「法輪功のメンバーを雇う会社があるわけがない、仕事が見つかると思っているのか、と言われました。それなら掃除夫をすると言ったら、それも無理だと言われました。私は、それなら乞食になりましょう、と言いました。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「彼らもよく承知しています。私や私のような人が無数にいる限り、彼らは失敗するということを。なぜなら、今まで彼らが見てきたのは、欲望と恐怖に支配された人たちでしたが、私たちは違います。私たちは彼らがかつて見たこともない形で反抗してみせます。」

 

最も深い暗闇の中で

私達は星の光です

いつか夜明けの光が差し込んで来た時、

光輝く物語を一つ贈りたい

私達の物語を

 

北京の春は短く、柳の新緑や桃の花の香りは一瞬にして消えてしまいます。

 

1999年3月、蕭晴は清華大学キャンパスに綻び始めた柳の新芽を数えながら、いつも通る小道を歩いていました。この時の彼女は悠然とした気持ちで、幸せに浸っていました。

 

蕭晴(しょう せい) 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「1999年の3月から5月までは私の人生にとって大事な時期でした。もうすぐ修士号を取得し、上海で満足できる就職先も決まっていました。しかももうすぐ結婚です。私にとって、人生の新たな一ページが開かれようとしていました。将来何があるかは分かりませんでしたが、希望と期待にわくわくしていました。」

 

蕭晴の結婚の相手は同じ学部の王為宇です。王為宇が北京を離れて、彼女と一緒に上海に行くと決めたことにも、蕭晴は幸せを感じていました。王為宇は博士課程の4年で、あと1年足らずで学位が取れる予定になっていました。博士号を取った後に上海に行くと決めたことは、すでに用意されていた中央政府での出世の道を捨てることを意味します。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「かなり若い時から、彼は共産党の特別養成の対象に選ばれていました。その後、学部の学生補導員、共青団書記となりました。彼の将来は胡錦濤(前国家主席)や賈春望(前最高検察庁検察長)と同じようなものです。最高権力に近づくことができる。ゆえに、普通の人間にはない素質が必要です。例えば、人の内面を深く洞察し、人の心を左右することができる能力です。しかし、人の心を深く知ったその時、その人への同情心も生まれます。生きていくことは大変なことです。人をコントロールできる人は、自分の中で何かを捨てた人だと思います。この何かを捨てられる人が怖いのです。」

 

中央政府で閣僚を務めている清華大学の卒業生は100人以上います。朱鎔基、胡錦濤、習近平、みんなは清華大学出身です。清華大学は中国共産党の高官の大本営で、中央の第二の党校とも言われています。王為宇はこの中の1人になれるのでしょうか。実際この道を歩もうともしましたが、彼にはどうしても無理でした。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「最初からこの仕事がいやでした。高校時代や大学に入学した時、科学の研究をしたいという気持ちでした。(党の仕事は)やりたくはありませんでしたが、先生方の期待に応えなければと思って、ずっとしていました。でも、自分自身は矛盾を感じていました。政治の仕事は嘘が多く、自分の理想とはかけ離れていました。」

 

当時の王為宇にとって、将来どの方向に進むのかは分かりませんでしたが、自由な科学者になるという魅力的な選択肢もありました。周りの人たちも人生の分かれ道に来ていました。孟軍は大学に残って教師となり、虞超は外資企業に入って働くことになり、謝衛国は奨学金を得て外国に留学する準備をしていました。劉文宇は博士課程を前倒しでスタートし、黄奎も試験を免除されて博士課程に進みました。しかし、これらは突如現れて事で壊されていきました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「4月24日。この日をはっきりと覚えています。その日、私達がいつものように法輪功をやっていた時、突然補導員が入ってきて、中止させられました。天津では警察が私達の同修を逮捕しており、明日みんなで陳情に行こうと言いましたが、みんな何も言わず帰宅しました。私は妻に、『この一歩は必ず踏み出さなくてはならない。しかし一歩を踏み出したら、我々の人生は根底から変わってしまい、将来どうなるかは分からなくなるだろう』と言いました。」

 

天津の事件というのは、1999年4月11日に天津教育学院が発行した『青少年科学技術博覧』という雑誌に掲載された何祚庥の記事が発端となって起こりました。「青少年が気功に参加するのを賛成しない」と題したその記事は、法輪功について事実誤認に基づく事柄を書いていたので、天津の法輪功学習者が事実関係をはっきりさせるため教育学院に押し寄せました。当初、出版側は誤りを認め、訂正することに同意しましたが、その翌日一転して誤りを認めず、天津公安局が300名の機動隊員を派遣して法輪功学習者に暴行を加え、大勢の人が負傷し、40人以上が逮捕されました。逮捕された人を釈放するよう公安局へ押しかけると、公安は、『これは北京の命令で、解決するには中央弁公庁や国務院弁公庁に行かなくてはならない』と言いました。この言葉は何を意味しているのでしょうか。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「そういうところに行って話をしたとしても、到底分かってもらえるとは思えません。中国共産党は過去にも『百家争鳴、百花斉放』などと言って、政府に意見を言うように呼びかけました。思っていることを全部言うように促しておいて、その後にその発言はことごとく逮捕するための証拠として使われました。朱鎔基前首相も被害を受けた一人です。毛沢東はこれを陰謀ならぬ『陽謀』だと言いました。これが共産党のやり方であることは十分分かっています。大きな圧力に直面していましたが、法輪大法が正法です。やるべきことをしなくてはなりません。」

 

翌日、王為宇は王久春を誘って府右街の国家信訪局を訪ねました。その日、多くの学友も同じ場所にいましたが、お互い知りませんでした。

 

劉文宇 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「4月25日の朝9時から夜9時まで私はそこにいました。無事に解決されたと聞き、皆帰りました。空気が最も張りつめていたのは夜の7時か8時ごろ。話し合いがまとまらず、皆緊張してピリピリしていました……。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「警察がカメラを構えて撮影していました。この人達は全く我々を信用していませんでした。一段落したら仕返しするつもりでしょう。修煉者たちは堂々と顔を上げて写真を撮らせました。私も最前列に進み出て、『好きに撮ってください』と言いました。」

 

劉文宇 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「あの日8時になった時、命を投げ出す気持ちでいました。もし1989年6月4日の天安門事件のように、政府が軍を出動させて鎮圧しようとしても、心の準備はできています。どんなに暴力をふるわれても、絶対に引かないという思いでした。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「あの日、私は生きて帰れないかもしれないと思い、下着を替え、背広を着ました。服を全部新しいものに替えました。たとえ殴り殺されたとしても、それほどみっともない恰好にならずに済むと思ったのです。」

 

4月25日は何も起こりませんでした。その平和で、冷静な対応が世界に称えられました。当時の朱鎔基首相がその場にいる法輪功学習者の何人かを選んで会見を行い、その後天津で逮捕された人が釈放されました。すべてが完璧に解決されたように見えました。しかし、ただ一人不安で堪らない人物がいました。法輪功学習者が日差しの下で静かに佇んでいる時、その人物は暗闇から覗き込んでいました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「警察官の数が二、三倍増え、びっしりと並ぶ中に1台の車が走ってきました。車の中には大物がいると皆分かりました。様子を見に来たようでした。」

 

その後の報道で分かったことは、この車の中にいた人物こそ江沢民でした。あの日の法輪功学習者の静かな隊列が、彼に深い印象を残したようでした。その印象とは、残念なことに普通の感情ではありませんでした。

 

4月25日の幕が平和裏に下りました。皆も安堵しました。中央弁公室と国務院弁公庁は「気功の学習は自由」「気功を取り締まらない」とする通達を出しました。このことはこれで終わったと多くの人が思いました。

 

兪平 清華大学熱工学学部1997年博士課程:「政府が法輪功を取り締まらないことを決定したと、テレビのニュースで見ました。気功の学習はこれからも自由だという声しか聞きませんでした。」

 

しかし、清華大学で長年団委書記と党支部書記を務めていた王為宇には、そうは思えませんでした。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「私は長年学生の政治教育の仕事をしているので、よく承知しています。あらゆる面で、自分の政治生命は終わったのだと知っていました。共産党のよく言う『政治生命の終結』です。では、学問はどうか。今後学業を続けられるかどうか。始めはそこまで厳しいことになるとは思いませんでした。最初は、党書記などに思想に問題のある人間だと思われて何もさせてもらえなくなるだろう、卒業後の保証もなくなり、いい仕事に就くチャンスがなくなるぐらいだろうと思っていました。」

 

王為宇にとって、4月25日の陳情に参加したことは、官僚の一員となるか科学者になるかの選択でしょうか。1999年の春はいつものように一瞬で消え去り、蒸し暑く息苦しい夏がやってきました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「425陳情の後、共産党のあらゆる機関と組織が動き出し、すべての人を調査し始めました。妊娠適齢期調査と称して、住民委員会が家に来て、妻への調査だと言いながら家族全員の調査が行われました。」

 

「気功は自由だ」との通知が出たすぐあと、中央弁公室と国務院弁公庁による法輪功学習者への嫌がらせが始まりました。海外メディアの報道によると、法輪功への一貫性に欠ける対応は、中国上層部の対立が原因だと分かりました。

 

1998年に前全国人民代表大会常務委員会委員長だった喬石が自ら調査団を作り、法輪功について調査を行いました。調査の結果、「法輪功は国家や人民に対して、百利あって一害もなし」との結論が出されています。海外メディアの報道では、当時中国共産党最高幹部である7人の政治局常務委員全員の家族が法輪功を修煉していました。425陳情事件があった後、法輪功への鎮圧に賛成したのはこの7人のうちただ1人でした。

 

辛子陵(前中国人民解放軍軍事学院出版社社長):「7人の常務委員のうち6人が法輪功を鎮圧するのに反対しました。賛成したのは江沢民ただ1人でした。常務委員会で同意を得られなかったから、別に会を招集し、自分の主張を強行突破させました。」

 

ウィキリークスが公開した当時の外交資料によると、7月19日、中国共産党中央政治局が会議を開き、法輪功鎮圧が決定しました。資料では、「その間はずっと法輪功のことで忙しかった」との江沢民の言葉も引用されています。

 

同じ日に虞超はいつもの通り清華大学の気功修煉場に行きましたが、その異常さに気がつきました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「その日の早朝4時、気功修煉場でタバコを吸っている者が何人かいました。警察によって監視されているのです。私は補導員になったこともありませんが、補導員は警察の監視下にあることを悟っています。だから、(人の目につかないよう)夜になるのを待って、黒づくめの恰好で自転車に跨り、同修の家を回って、『明日から陳情に行こう』と話しました。」

 

7月20日の早朝。虞超と仲間たちが信訪局に陳情に行く前に、全国規模の大量逮捕が暗闇の中で始まりました。

 

劉文宇 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「7月20日の昼間、私は天安門広場に行こうとしましたが、中南海近くの街路はすでに封鎖され、通れなくなっていました。その日集まった大勢の学習者はそのまま静かに立っていました。今回は武装警察と反テロ部隊が出動しました。ぶ厚い盾を持ち、機関銃を脇に抱え、銃口を天に向け、物々しい空気が漂っていました。」

 

7月22日、民政部が法輪大法研究会を取り締まるとの決定を発表し、法輪功への鎮圧が始まりました。公安部も「六の禁止」の通達を発表しました。それは、法輪功に関するポスターや横断幕の掲示の禁止、関係部門への直訴の禁止、など法輪功を守る方法が全部禁止されました。今回は4月25日の時とは違いました。法輪功を続けることが何を意味するのか、誰もが分かっていました。しかし、その日から一年以上もの間、法輪功学習者の直訴は止みませんでした。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「7月21日、私達が陳情に行ったら、中南海の近くに大きなバスが止まっていて、そこに入れられました。臨時の拘束所です。同修たちが目の前で髪の毛を掴まれたり殴られたりしていました。」

 

兪平 清華大学熱工学学部1997年博士課程:「体育館の中は全国からの法輪功学習者でごった返していました。私も捕まえられました。」

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「政府の役人ははっきりと言いました。『国家信訪局は地獄への門だ。ここをくぐれば少なくとも3年間の労働教養で、毎日砂運びをすることになる。くぐらなければ、学校に戻って勉強が続けられる』と。彼らは私が清華大学の学生だと知って、びっくりしたようです。法輪功学習者は農民ばかりで、教育を受けていない人だと思っていたようですが、清華大学の学生のような教育水準の高い者たちもいることに驚いたようです。」

 

兪平 清華大学熱工学学部1997年博士課程:「警察にバスに押し込まれそうになったので抵抗したら、服は破られ、靴も片方なくしてしまいました。ある同修が持っていた靴カバーを貸してくれて、私はほとんど裸足で市内に戻りました。」

 

兪平は清華大学熱工学学部博士課程の学生です。博士課程を99年7月に修了し、アメリカの21の大学から全額の奨学金が支給され、留学の準備をしていました。普段から規則正しい生活を送っており、重圧に耐えられるしなやかさを持っている人です。

 

兪平 清華大学熱工学学部1997年博士課程:「私が最も尊敬しているのは宋の時代の範仲淹です。『天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむ』という彼の詩に感銘を受けました。君子としての生き方を選んだということは、『窮すれば則ち我が身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くし』です。」

 

しかし、今回兪平は独りよがりではありませんでした。7月22日、CCTV(中国中央テレビ)が法輪功を誹謗する報道を行いました。兪平は法輪功の潔白を訴える『万言の書』を党の中央に送り、誤った認識を正そうとしました。その時は考えもしませんでしたが、この手紙が原因でアメリカ留学の夢が露と消えました。

 

7月19日から7月22日の大量逮捕の後、清華大学は法輪功を修煉している学生に対して本格的に動き出しました。

 

劉文宇 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「10月末に、私達修煉を止めない学生達が休学させられました。証明書や書面通知など何ももらえずに、法輪功を修煉するなら学校に行かせないという説明しかなく、なぜなのかと聞いても、『理由は自分達がよく分かっているはずだ』という回答でした。」

 

劉文宇は15日間の洗脳教育を受けました。専門家や教授や党委員会書記が圧力をかけに来て、最後は山西省から両親も呼ばれました。劉文宇は屈しませんでしたが、あの時の、年を取った両親の姿は未だに脳裏に焼きついて離れません。

 

劉文宇 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「両親が泣き叫びました。私の前で跪き、『共産党に逆らってはだめだ。共産党はお前の将来も何もかも奪っていくよ』と懇願しました。私が拘束されて二週間経った頃、親は体調を崩し、母は毎日寝られませんでした。私も親を見て辛くて、苦しくて、仕方がありませんでした。自分は自分の事だから何があっても耐えられますが、なぜ親までも苦しまなければならないのでしょうか。両親には何の罪もありません。私に何の罪があるのでしょうか。」

 

清華大学の学生達が洗脳教育を受けさせられているとき、修煉者が大勢いる清華大学精密機器学部の重要人物、王為宇は、ただ何回かの面談をしただけでした。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「面談の時、ちょっと先生が話しただけで、目的は何かもう分かったのです。要するに2つの要点があって、1つは今のままでは私達は危うい状況となるということ。もう1つは私達の考えを知りたい、誰が考えを変えられるのか、誰が変えられないのかを判断し、上に報告しなければならない、それから対策を練ると。私は先生に、『先生は私達を政府に売れますか』と聞きました。先生は私達と一緒に活動したことがあって、私達が良い学生かどうか、人格的に問題があるかどうか、国を愛しているかどうかを、誰よりも分かっています。だから先生に『先生は私達を政府に売れますか』と聞きました。私の質問を聞き、先生も分かってくれました。『この仕事は自分にはできない』と言って、去っていきました。」

 

教師を使っての説得には失敗しましたが、学校側にはいくらでも対応策があります。相手がどんなものなのか、王為宇は十分知っています。自分の将来を守るため、共産党というシステムを熟知している彼は、最後の努力をしました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「党委員会書記にこう言ってみました。『共産党は個人が自分の意見を持つことを容認している。私は自分の意見を持っている』と。すると、書記たちは、『そんなのは冗談に決まっているじゃないか』『ただの方便で、本当に自分の意見を持つことなどあり得ない』と正直に言いました。私は、『張志新も自分の考えを変えず、後にそれが正しかったことが証明されたではないか』と話しました。すると彼らは、『共産党には張志新のような人間は要らない』と言いました。分かりやすく言えば、共産党は真理を信じる者を必要としないということです。」

 

王為宇にとって、この結果は意外ではありませんでした。学校と交渉しながら、自分に一番低いラインを設定しました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「当時、『法輪功を学んで、とても自分たちのためになったよ』と母に言いました。体が元気になり、人格は高められ、何の条件も設けずに無償で提供し、ただ己の心性を高める心だけを求める。それが今、状況が変わり、法輪大法が誹謗され、同修が不当な扱いを受け、違法に逮捕されるようになると、皆が隠れてしまった。いい時は我が先に、悪くなったら一目散に消えるなんてあり得ない。私にはできません。」

 

王為宇は何度も休学処分となって、学校と自宅を往復させられました。1999年、異常に熱い夏が過ぎた10月下旬、北京には早々に冬が訪れました。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「あの時、天気が突然変わりました。北京の10月はそれほど寒くないはずですが、その日、天安門広場には大勢の警察官がいて、皆一番ぶ厚い軍用コートを着ていました。」

 

黄奎が言ったその日は10月28日です。その三日前に、江沢民がフランスの新聞フィガロの取材を受け、初めて法輪功を「邪教」だと言いました。その日、黄奎は清華大学の学生達と一緒に天安門広場に行って抗議しました。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「清華大学の多くの学生が天安門広場に行きました。私達はもう帰って来られないと思って、歯ブラシなどを用意して持って行きました。そのまま捕まえられて、閉じ込められると覚悟し、帰ってくるなどとは考えませんでした。」

 

外国記者の取材を受け、信訪局に直訴したことで、黄奎は国家安全局に目をつけられました。その時、清華大学の秘密が露呈しました。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「その時、初めて知りました。清華大学の学部生や夜間クラス、社会人クラスも含め、学生として登録している人の中には、国家安全局のスパイがいるということを。彼らも寮の一人部屋に入っており、私達と年齢が同じで普段は私服なので、一見普通の学生と何も変わりません。」

 

1999年、中国共産党が法輪功を鎮圧し始めて間もなく、江沢民は当時の国務院副総理・李嵐清に自ら清華大学に駐在し、鎮圧状況をチェックするよう求めました。全国の大学および大学院の中で、清華大学ほど共産党のコントロールを厳しく受けた学校はかつてありませんでした。しかし、清華大学の学生達の反応は、共産党が予想もしなかったものでした。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「学部の学生指導教師が私の監視役につけられ、私をあきらめさせようとしました。ある時、先生が、このままだと学校から追い出すと脅しました。私がそれなら仕事を探しますと答えると、『法輪功の人間を雇う会社があると思っているのか』と言うので、それなら掃除夫になると言ったら、『それも無理だね』と。だから私は、『それなら乞食になりましょう』と言いました。」

 

黄奎は清華大学の優秀な学生です。二年生からずっとトップの成績を修め、試験免除で博士課程に進み、クラスの学級委員や学部の科学技術協会副主席を務めました。ほかの法輪功修煉者もみな彼と同じく優秀な学生です。

 

劉文宇は学級委員を務め、清華大学優秀学生奨学金を受け、試験免除で博士課程に進みました。

 

孟軍は清華大学優秀学生奨学金を受け、卒業後大学に残り教師となりました。

 

兪平は清華大学のさまざまな奨学金を何度も受け、国外でも論文をいくつも発表し、清華大学の優秀卒業生に選ばれました。試験免除で博士課程に進み、学部修士会主席、修士ワークグループ副組長も務めていました。

 

王為宇は中国計測器協会の特等奨学金、清華大学一等奨学金を受け、清華大学の優秀卒業生にも選ばれ、試験免除で博士課程に進みました。クラスの学級委員や学部の共産主義青年団支部書記、共産党支部書記、学部科学協会副主席、学生補導員も務めました。

 

謝衛国は清華大学特等奨学金を受け、在校生1万人から特別育成学生に選ばれ、300人の教育実験生の1人で、清華大学学生科学協会常務副主席を務めました。

 

これらの優秀な学生に対して、学校側もなかなか手を下すことはできませんでした。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「私達と話し合うよう先生方も命令されたわけです。法輪功の修煉者が私達であることに、先生も悲しかったようです。学生定例会で何度も顔を合わせているメンバーですから。」

 

王為宇は分かっていました。先生にとってもつらい仕事であることを。何ヶ月かの間、学校側と何度も交渉を重ねた結果、終にその日がやって来ました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「学校側と何度も話し合いましたが、家で反省するようにと休学させられ、実家へ送り返されました。反省すると言っても何を反省すればいいのか分からず、法輪功の修煉を続けたいという気持ちは変わりませんでした。学校側との交渉はいつも単独での面談でしたが、最後は学校の廊下で、大勢の学生と同修の前にしたものでした。この時私が党委員会書記に法輪功の修煉を続ける意思を伝えたら、彼は怒ってその場を離れました。ある日、彼が私に『休学しなさい』と言いました。心の準備はすでにできています。こうしたことを何度も繰り返しているうち、もう学校にいられない、私の学業はここまでだと悟り、『わかりました』と言い、手をふってその場を去りました。書記が背後で私の名前を呼んでいましたが、私はふり向かずに行きました。修煉について話すことはもうないと思ったので、私は清華大学の門を出ました。」

 

その年、王為宇は26歳で結婚したばかり。約束された将来がありました。その年の秋、人生で最も重要な選択をしなくてはなりませんでした。しかし、彼の選択肢はあまりにも少ないものでした。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「勉強する目的は知識を得て、道理を理解するためです。どんなに勉強しても道理が分からなかったら、ただの愚人に過ぎません。学んだことを日々の生活で実践することが重要です。それができないなら、いくら知識ばかり積んだとして、いったい何の役に立つでしょう。それがかなわないならば、そこを去るまでです。」

 

その時、彼と同じように若くて、聡明で、意気揚々とした学友たちが、キャンパスから追い出されました。

 

孟軍(もう ぐん) 清華大学電子工程学部元教師:「当時、私は清華大学で教師をしていました。学校側が職につけさせないため、仕方なく学校の外で仕事を探すしかなくなりました。」

 

兪平 清華大学熱工学学部1997年博士課程:「1999年10月から3か月間、最初の休学を命じられ、2回目は2000年の6月、天安門広場に陳情に行ったために休学させられ実家に送り返されました。」

 

劉文宇 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「とにかく休学だと。いつまでかを言わずに、休学です。無期限休学です。」

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「私は自転車に乗って、清華大学の真っ直ぐのメインストリートに沿って、私達の宿舎がある北から南へ走り、南口から出ていきました。清華大学のキャンパスは広大ですが、そこには私の居場所はもうありませんでした。」

 

清華大学を出て、黄奎は学友達や全国から集まった法輪功学習者と共に、天安門広場へ通い続けました。

 

兪平 清華大学熱工学学部1997年博士課程:「あの時のことは今も覚えています。そこに座った瞬間、時間が止まりました。私は大声で叫びました。『法輪大法好』『法輪大法は無実です』『李先生は無実です』と。全身全霊、体の全ての細胞から声が出てきたように感じました。今でも思い出すと感動します。」

 

天安門広場では、「法輪大法好」と叫ぶ声と、パトカーのサイレンが交互で響き渡っていました。何千回も何万回もこの同じシーンが繰り返されました。この繰り返しの中で、静かな、しかし不動の意志が、すでに無数の人々の心に刻まれていることが証明されました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「天安門広場に行こうと決心をしたとき、『法輪大法好』と叫びたいという強い気持ちが沸き起こりました。私の思い、感情はあまりにも強く、そのまま詩となって現れてきました。」

 

「誓いの道を行く

 

末劫に人となり世に下る

師の力になり法輪を回す

衆生に新しい宇宙を与えるため

この身を粉にして喜んで捧げ

聖なる誓いを胸に無限の宇宙に浮かび

時に至って法は成り真理に帰る

生死は取るに足らない小さなこと

真法を得て沈淪から脱け出す

十方世界が大を讃える

真の天性を守って我が身を捨て

力を奮えようと同修に伝える

仏の世界は万劫の春を待つ

 

虞超」

 

かつて「天の寵児」と呼ばれた彼らは北京の街中に散り散りばらばらになり、再び天安門広場で集まりました。この時、虞超は王為宇のような政府色の強い人物と関わりを持つようになりました。

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「政府は法輪功を弾圧し始め、多くの学生が宿舎から追い出されました。清華大学の北門の外側には当時、たくさんの平屋がありました。天井が低くて、湿っていて、夏になると蚊が多いこの平屋へ、皆は引っ越すことにしました。すでに就職し、中古の車を持っていた私は、引っ越しを手伝いました。王為宇と一緒に、本や夏ござを車に詰めこんで北門の外の平屋へと運びました。今でも覚えています。天井が低く、扉に目隠しの布がかかっていたあの部屋を。私は夏ござを抱えて、彼の後について、部屋の中へと入って行きました。この日が私が王為宇と初めて関わりました。」


人と人の関係というのは、幼馴染みであったり、小中学校の同級生であったりと、知らず知らずのうちに作り上げていくものです。虞超と王為宇の命を交わした友情も、この静かな時から始まりました。目の前にいるこの信じられないぐらい優秀な優等生、かつての党支部書記だった人と、非凡な使命に挑むとは虞超は考えもしませんでした。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「その時ただ一つだけ、はっきりと分かったことがあります。この迫害が始まったことで、法輪功は世界の信仰になるだろうということです。世界も必ずや法輪功を受け入れるでしょう。彼らもよく承知しています。私や私のような人が無数にいる限り、彼らは失敗するということを。なぜなら、今まで彼らが見てきたのは、欲望と恐怖に支配された人たちでしたが、私たちは違います。私たちは彼らがかつて見たこともない形で反抗してみせますから。」

 

清浄潔白な心で寒い夜を耐え

川がいずれ海に帰え日が昇り

 

新唐人テレビがお伝えしました。

http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2016/01/20/a1248120.html(中国語)

(翻訳/小松 映像編集/Ann)

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