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「清華大学の物語」第4話 夜明けの光を待つ【世事関心】

2017年01月31日

王為宇(おう いう)清華大学精密機器学部1996年博士課程:「私は学生証以外何もありませんでした。パっとテーブルの上に学生証を置き、『保険は一切要りません。一か月働いたら、一か月分の給料をいただきたい。ほかは一切要りません』と言うと、『いいでしょう、来てください』と言われました。」

 

蕭晴 (しょう せい)清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「学校を出た後どうなるかなど、将来について考えないことにしました。いつかこの環境が変わり、また元の平和な修煉環境に戻ったら、私達にも未来が考えられるようになると思います。」

 

虞超(ぐ ちょう)清華大学精密機器学部1995年卒業:「彼女に会いに行った時、できるだけ明るく笑顔で、何ごともないようにふるまいました。きっと良くなって、また二人で並んで座って語り合うことができると。でも本当は、彼女はもうだめだと分かっていました。」

 

5日の夜、趙昕(ちょうきん)は北京の紫竹院公園で煉功していた時に違法に逮捕されました。その3日後、趙昕は暴行を受け、頸椎の第4、5、6節が粉砕性骨折を負いました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「その時から、私の心にあった恐怖が義憤に変わりました。彼らは、想像を絶する非情な仕打ちを私たちにしたのです。だから、やらなければならないと思いました。私がやらなければ、さらに多くの人が同じ目に遭うでしょう。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「公安部は私と虞超の2人を逮捕しようと狙っていました。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「階段を上がると、警察が待ち伏せていました。私は警察の方へ向かって進みました。」

 

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「最後の通話から30分後にかけたら、応答がありません。それでもずっとこの番号にかけ続けました。」

 

電話の自動音声:「こんにちは。ただいま電話に出ることができません…」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「これほど殴られると、もう怖くなくなりました。私は冷静に一文字も間違えずに大法を暗誦しました。そして自分に言い聞かせました。決して彼らに変えられてはならない、彼らを変えることがあっても、決して変えさせない、と。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「私はずっと100日くらい耐え続けました。彼らには思いもよらないことでしたが、実際私自身も自分のことを信じられなかった。私は最後まで何も話しませんでした。」

 

黄奎(おう けい)清華大学精密機器学部1999年博士課程:「『大』という字を思い浮かべていました。『大』という字はさらに深い意味を含んでいます。これはかつて人類史上になかった大きな転換点です。偉大な紀元が始まるのであり、人類史上類を見ない転換の過程になるからです。」

 

最も深い暗闇の中で

私達は星の光です

いつか夜明けが来たら

私達は1つ光輝く物語を贈りたいです

それは

私達の物語です

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「その時、天候がおかしくなっていました。極端に寒かったり、暑かったり。周りのすべて、小さな草花までもが悪意を持っているように感じていました。『明慧』の編集部に出した手紙に、『ここは人間界ではない』と書いたのを覚えています。」

 

その年の真夏、王為宇は灼熱の北京の街で、本来なら一年後にするはずだった仕事探しをしていました。たった一年の差で、すべてが違っていました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「『何ができるのか』と聞かれました。『何でもできますが、何がしてほしいのか分からないので、今は何もできません。でも2、3か月の時間をください。そしてその時ちゃんとできていたら雇ってください。もしもできないなら追い出していいです』と言いました。『いくら欲しいのか』と聞かれ、『この何か月は生かしてくれれば結構、その後、私にいくらの値打ちがあるのか決めてください』と答えました。『正直だね、卒業証明書はあるのか』と聞かれました。私は学生証以外何もありませんでした。パっと、テーブルの上に学生証を置き、『休学中です。学生証以外何もないです』と言いました。」

 

2000年7月、法輪功への弾圧が始まってまる一年が経ち、法輪功を修煉している清華大学の学生達がキャンパスから、全員追い出されました。王為宇は最年長の博士課程の学生として、生きるために仕事を探さなければならなくなりました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「『保険などは一切いらないから、お金をください。一か月働いたら、一か月分の給料を現金でいただきたい。ほかは一切いりません』と言ったら、『いいでしょう、来てください』と言われました。」

 

2、3か月後、王為宇の給料は3、4千人民元から8千元となりました。2000年の中国では、これはかなりの金額です。しかし、彼は清華大学から追い出された6、7人の学生の面倒を見なければなりません。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「ほかの同修達も部屋を借りなければなりません。それならこの金を家賃にしようと。その時は至極当然のことでした。みんな厳しい状況に追い込まれているのだから、すべての金は皆の金、うまく使えば、皆がちゃんと生活できる。それが当時の状況です。」

 

王為宇が借りた部屋は清華大学の北側、大学が集まる学院路の隣の上地開発区にありました。清華大学の南側、王為宇と反対側にいたのはもう一人の清華大学の博士課程の学生、劉文宇夫婦です。彼らは中関村白頤路中国科学院のマンションを借り、十数名の清華大学から追い出された学生を受け入れていました。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「当時は金がなくて、皆が貯金を崩して、何とか頑張っていました。劉文宇夫婦もいい人たちで、家賃も取らず、ご飯は皆が持ちよった金で簡単なものを作って食べていました。当時、地方から来た修煉者達は、いつ逮捕されるかも分からず、私達より大変でした。私達は北京市の身分証明書があるので、その危険はありません。皆が楽観的でした。大学にいた時にはいつも監視され、思想改造教育を施されていたので、それよりはましですから。」

 

記者:「楽しかったですか。」

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「そうです。楽しかったです。」

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「学校を出た後どうなるかなど、将来について考えないことにしました。いつかこの環境が変わり、また元の平和な修煉環境に戻ったら、私達にも未来が考えられるようになると思います。」

 

学院路と中関村科学技術園区は中国の科学技術と文化の中心地であり、寸土寸金の地です。清華大学はこの場所で最も光輝く名所の一つです。若い学生たちは、大学から追い出されましたが、この傷心の地から離れようとはしませんでした。2000年、法輪功に対する誹謗中傷が最も激しく、迫害から一年が経った時、中関村科学技術園区を貫く白頤路で、学生たちは特殊な方法で自分達の存在と志を示しました。

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「2000年の7月22日を迎えるより少し前、私はある同修の家にいました。張連軍さんと何人の同修が相談しに来ていた。中関村の大通りに架かる7、8個の歩道橋に横断幕を垂らすという計画でした。歩道橋から黄色の法輪大法の横断幕を垂らすのです。張連軍が布を買いに行ったと思う。弾圧から一年の7月20日に、彼がこんなにたくさんの明るい黄色の生地を無事に買ってきたことは信じられませんでした。生地を3、4メートルの長さで裁断しました。私とほかの女子学生の仕事は、生地に『法輪大法』と書くことでした。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「白頤路にはたくさんの歩道橋があって、歩道橋1つにつき2枚の横断幕を垂らす予定でした。1枚は3、4メートルの長さです。周囲には大勢の歩行者と警察や警察補助がいて、見られたらすぐさま捕まえられてしまう。歩道橋の両端の上り口を封鎖されれば、逃げ道がなくなります。でも、やるしかない。一か所ではなくすべてです。全部の歩道橋に3、4メートルの法輪大法の横断幕を垂らす。朝の9時は交通量が多く、人もたくさんいる。横断幕を垂らした後、捕まえられないようにするならどうすればいいのか。歩道橋まで行って観察して、場所を決め、帰ってから計画して練習をしました。そしていざ実行すると、一瞬にして通りは横断幕でいっぱいになりました。結局、1人も捕まえられることはありませんでした。」

 

この白頤路事件の後、それまでも異様な雰囲気に覆われていた北京市はさらに緊張が高まりました。三輪オートバイに乗った武装警察は手に小型機関銃を持つようになり、巡回も頻繁になりました。この少し前から、北京市内には地方から人々が集まってきていました。旅の疲れが浮かぶその瞳には、堅い決意が込められています。この人達は中国各地から天安門広場に直訴しに来た地方の法輪功学習者です。皆が法輪大法の横断幕を持ち、法輪功に対する弾圧と迫害に抗議するため集まりました。北京市公安局は露天商の饅頭の売り上げから北京へやって来た法輪功学習者の数を計算し、その数は100万人にも上ったと言います。中国共産党に弾圧された団体の中で、法輪功学習者のように、真正面から、平和で固い信念をもって立ち向かう者はかつてありませんでした。清華大学の学生達もまたこの特殊な人々の一部でした。

 

孟軍(もう ぐん) 清華大学電子工程学部元教師:「私達はインターネットでメールの検証用ソフトを使って数十万以上の有効なメールアドレスを集めました。中には北京の各大学や主要なウェブサイトのメールアドレスもあります。私は真相を訴えた文章と、法輪功学習者が迫害され死亡した写真も入れたメッセージを作成しました。当時北京大学の外にはネットカフェが集まる通りがあり、中でも大きな『飛宇ネットカフェ』に私たちは毎晩行って、真相を訴えるメッセージを送り続けました。一晩で1人につき2、3千通のメール送ったので、送付したメールはまもなく数十万通に達しました。」

 

その年の最後の日、清華大学の近くにある円明園の付近の村から古い北京城へ、北風に乗って特別なプレゼントが届けられました。

 

孟軍 清華大学電子工程学部元教師:「ある年配の同修が私達に提案しました。風船を使って、真相を書いたビラを天安門広場まで飛ばそうというものです。こういう計画でした。天気予報でその日の風速を調べ、それから風船を飛ばす場所から天安門広場までの距離などを計算し、風船の飛行時間を割り出す。タイマーをつけて、時間になったら、タイマーが起動して、装着したヒーティングワイヤーが加熱されて、縛っている縄を焼き切り、ビラを撒くと同時に横断幕も垂らされるというものでした。後に、私が海淀看守所で尋問を受けた際、警察が風船のことを話していました。成功だったようです。釈放された後に聞いた話では、風船の一部は北京衛戍区の軍隊によって撃ち落とされたそうです。」

 

風船事件によって、政府の関係部署が合同で通達を発表しました。重要な時間帯及び、人民代表大会と政治協商大会期間中は、個人及び企業と政府機関が天安門広場を中心とした半径二百キロの空域において飛行を行うことをすべて禁じました。飛行器のプラモデルショップでさえにも閉店させられていました。

 

王為宇と劉文宇の家の間にもう一つ、清華大学の法輪功修煉者が集まる場所がありました。虞超夫婦の家です。虞超夫婦は清華大学の東南門の近くの東王荘エリアに住んでいました。虞超にとって2000年は大変な一年でした。天安門広場で直訴した妻は、一年半の実刑判決を受けました。虞超自身も4月25日に天安門広場に行ったことで、二度に亘って海淀の刑務所に収監されました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「看守に服を全部剥がされてから、他人の下着を着させられた。拘置所では、囚人の下着はみんな一緒に洗うので、非常に汚いものです。看守たちはわざと法輪功修煉者を麻薬常習者や性乱交者と一緒にして、彼らの服を着させられていた。着ないと裸です。しかし、彼らの服を着た後すぐに疥癬や淋病に感染しました。小便する時に、痛みと共に尿道から緑の膿が出る。腰もひどく痛み、小便の都度に3、4回の痛みを我慢しなければならない。彼らはこのような方法で私を虐待していました。15人しか入れない獄房に40人以上が詰め込まれて、寝る場所もありません。毎晩順番で寝るしかなく、睡眠を奪われていました。」

 

この二回の入獄で、虞超の心に恐怖が植え付けられました。釈放された後、虞超は何をすべきなのかが分からなくなり、直訴に行ってまた捕まえられるのを恐れるようになりました。6月の蒸し暑い北京には不穏な空気が流れています。この時、北京紫竹院練功場で事件が起こりました。北京工商大学経済学院の教師で法輪功修煉者の趙昕が、紫竹院北側の川辺で練功していた時に捕まり、三日後暴行を受けて第4、5、6頚椎を砕かれ、病院に送られたのです。紫竹院から近い清華大学に趙昕の事件がすぐに伝わり、学生達は彼女に会いに行きました。虞超もその1人でした。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「左目が完全に失明していました。恐らく靴の踵で踏み潰されたのでしょう。目は開いたままで閉じることができず、瞳孔と白眼が混ざり合っていました。喉には穴があけられ、プラスチックの管を入れられていました。喉が柔らかくので、切開されたら、管を入れないとしぼんでしまいます。だから、彼女の喉からは、ヒューヒューという音しか出せません。彼女は手足に鎖をつけられたまま、海淀病院に送られたのです。私は大きな花籠を持って、彼女に会いに行きました。花籠には、趙昕を励ます言葉を書きました。その時から、私の心にあった恐怖が義憤に変わりました。最悪の場合、自分もこのようになるかもしれません。でもそうだとしてもやらなければならない。自分が何もしなかったら、さらに多くの人がこのような目に遭ってしまうから。」

 

病院を後にした虞超は、趙昕の事件について書き、写真を添付して、国外にある法輪大法のメディア、明慧ネットに送りました。今では簡単に明慧ネットに投稿できますが、当時では簡単なことではありませんでした。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「皆に伝えなければならない真相がたくさんありました。どうしたらいいのか、虞超は自分の考えを持っていました。清華大学の学生である私たちは技術を持っている。ならば国外に通じる通信経路を構築しなければならないと彼は言いました。電子メールがその手段ですが、電子メールを安全に使うには暗号化しなければならない。どうやって暗号化するのか、彼はすぐにその方法を見つけました。それをシステム化して各地の同修に教え、各地の状況を明慧ネットに伝えられるようにした。これだけではありません。国内で迫害を受けた同修の事を外国の記者に紹介し、国外で報道してもらい、世界の人々に知らせなくてはなりません。」

 

外国の記者と連絡を取り、法輪功学習者を取材することが虞超の重要な仕事の一つとなりました。王為宇は彼のパートナーになりました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「私がやることはいくつかあって、1つ目は場所選び、取材する場所を選ぶことです。2つ目は取材場所へのルートを計画することです。記者が尾行をまけるようなルートを計画します。3つ目はこのルートで見張り役をし、尾行が完全にまかれたことを確認します。4つ目は取材対象者を約束の場所まで安全に送り届けることです。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「記者一人につき六組の警察が尾行していると記者から聞きました。教えてくれたのは、当時『ウォール・ストリート・ジャーナル』に勤務し、過去にピューリツァー賞を受賞した記者でした。入国時に記者だと分かるとパスポートに記入され、中国のどこに宿泊しても、すぐさま現地の公安局に通報されます。記者たちは厳しい監視下に置かれているのです。外国の記者を迫害を受けている法輪功の同修に会わせるため、私たちは念入りに計画を練りあげました。中でも最も重要なのは電子メールの安全性を確保することです。暗号化用のソフトをダウンロードするにはネット規制を突破しなければなりませんが、外国の記者にはそれができないので、私たちが手伝いました。まずファイルを30個に分け、記者が自分のコンピュータにダウンロードした後、ある方法を使ってこの30個を一体化すると復元できます。練習用資料も作成し、分かりやすい言葉で使用方法を解説し、遠距離で暗号化の仕方を教えていました。これで私たちが連絡を取り合っても政府は監視できなくなりました。警察の尾行をまくために、まだいろいろな方法があります。私たちはこうして、何度も迫害を受けている法輪功学習者を外国の記者に会わせることに成功しました。」

 

2000年の後半に入り、北京はますます厳しい状況になってきました。5月に趙明が逮捕され、6月に劉文宇が天安門広場で横断幕を広げたために逮捕され、10月に兪平が逮捕され4年の実刑判決を受け、12月31日の夜中に孟軍が逮捕され10年の実刑判決を受けました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「重要なこと、例えば、外国の記者の取材をアレンジする時などは、緊張とプレッシャーで押し潰されそうになり、自分の心臓の音も聞こえてきました。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「恐怖が影のようにつきまとっていました。本当の勇気とは、恐怖と友達になって隣り合わせに座り、恐怖に怯えながらもすべきことをすることです。これこそ勇気です。決して恐怖がないわけではない。恐怖がないというのは現実に直面していないのです。」

 

虞超と王為宇が外国のメディアと連絡を取り合っているとき、清華大学のもう一つのグループの学生達はさらに大胆なプロジェクトに取りかかりました。真実を伝えるメディアの設立です。中国でいった何が起きているのか、真実を世界に伝えるメディアです。2000年10月、このメディアが初めて独自で取材したニュースを報道しました。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「2000年の10月1日、多くの法輪功学習者が直訴するため天安門広場に行きました。この事実を伝えようと、『大紀元』は天安門広場に記者を派遣しました。記者は逮捕されましたが、貴重な写真が送られてきました。この写真報道が新生メディア『大紀元』の初めての報道となりました。」

 

数年の後、『大紀元』は世界35ヵ国で発行され、21ヵ国語版を持つ世界的なメディアに成長しました。北京の学生達の筆によって、産声を上げたのです。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「当時、『大紀元』がどんな役割を担ってゆくのか、はっきりとは分かっていませんでした。ただこのことはとても偉大なことで、新しい何かを作り、切り開くことだということは分かっていました。だから、皆力を出し合って、多くの修煉者がすべての貯金を使い果たし、少なくとも6人の清華大学の学生がこのメディアのサイトの構築に加わりました。ほかの学校の人も参加しました。北京大学、北京林業大学、そして中国科学院の学生たちです。私達には一つの原則があります。それは、真実を公正にきちんと報道することです。」

 

黄奎と『大紀元』の他の参加者にとって、これはただのメディアではなく、まるで暗黒の中に煌めく星の光のように、皆の希望と決意が込められたものです。

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「元々『新紀元』という名前にしたかったのですが、『大紀元』という名前になりました。それは、法輪功の修煉者ならだれもが知っているように、個人にとっても社会にとっても、人の道徳は非常に重要なことで、法輪功は道徳を重んじるものだからです。法輪功は人類に新たな紀元を切り開いたのです。だから『新紀元』では普通過ぎる気がして、それで『大』という字を思いつきました。『大』という字には深い意味があり、これは偉大な紀元であり、歴史上かつてないほどに人類が更新していく過程です。」

 

二ヵ月後、マカオ返還一周年記念のため、江沢民がマカオに来ることになりました。『大紀元』の珠海オフィスが捜査され、その後、広州、北京、杭州などで90名あまりの『大紀元』に関わった法輪功学習者が逮捕されました。黄奎もそのうちの一人でした。

 

人類が迎えた第二の千年の一年目、彼ら清華大学の学生達にとっては、異常に不気味な雰囲気で始まりました。2001年1月23日、(法輪功修練者が焼身自殺を強要されたとする)天安門焼身自殺事件をでっち上げたのです。この事件は中国の人々に大きな影響を与えました。もともと人々は政府の法輪功に対する弾圧に強い反感を持っていました。しかし、この事件がきっかけで、法輪功修煉者は反社会的で精神異常者であると思われ始めました。黄奎が逮捕された後は、馬艶、李艶芳など5名の清華大学の学生も逮捕されました。最も衝撃を受けたのは、1991年に清華大学を卒業した袁江が、2001年11月9日に残酷な拷問を受け、激しい苦痛に耐えて脱獄した事件です。山中身を隠しながら、やっと同修の家にたどり着きましたが、あまりに重症であったため、この世を去りました。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「当時、私が知っている多くの同修が捕まえられ、殴り殺され、ここは人間が住む場所ではないと思いました。私は怒り、苦しみ、1人で暗闇のような北京の街を歩き、天も地もなぜこんなにも非道なのかと叫びたい気持ちでした。」

 

ですが、その苦しみは全て夜や仕事の後に押し込んでいました。毎朝、太陽が北京の厚い霧の中からやっとの思いで昇った時、皆の目に映ったのは一生懸命に働く王為宇の姿でした。

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「彼が出張時の領収書を整理しているところを一度か二度見たことがあります。あの時代では、彼のような人が出張する時には、会社のイメージを守るため、会社側はタクシーで移動するようにと求めます。しかも乗るタクシーにもランクがあり、夏利のような一般のタクシーではなく、富康かそれよりもランクが上の高級車に乗らなければなりません。彼はその要求を満たした上で、公共バスもよく利用していました。できるだけ会社の経費を節約していたのです。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「その時、心が抑えつけられ、重苦しい気持ちでした。でも、私達は間違っていないと分かっています。たとえ多くの人が私達のことを理解してくれなくとも、多くの人たちが私達にたくさんの嫌がらせをしたとしても、私達は『真善忍』の教えに従っていかなくはなりません。仕事でも、人との繋がりの中でも、大法の修煉者の真の姿を見せ、大法の素晴らしさを伝えていきたいです。」

 

2001年8月、王為宇と虞超が公安部の重要な逮捕対象となり、2人は最も親密な友となりました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「私と王為宇以外は皆捕まってしまい、2人でこの状況に立ち向かわなければなりませんでした。この時分かったのは、私達の性格や興味や家庭環境の違いは何でもなかった、重要なことではないということでした。そんなものは表面上のものに過ぎず、大事なのは、私達は共に法輪功学習者だということでした。中国共産党に罪のない人々を傷つけさせるわけにはいかない、これこそ私達の心を強く繋いだ理由です。私達は共に法輪大法の修煉者で、これ以外の何者でもない。私達は残ったわずかな清華大学の修煉者です。技術を持っているのは私達で、計画を作ることができるのも私達です。様々な手段を短時間のうちに学び、すぐに実用できるのは、私達の外にはいませんでした。」

 

2002年8月、予想していたその日がやってきました。

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「その日の朝、彼はいつもと変わらず、出張に行くと私に言って、家を出ました。彼は仕事に就いてはいましたが、私達は常に特殊な状況下に置かれているため、私は一、二時間ごとに彼に電話をかけていました。しかし、午後になって、彼と連絡が取れなくなりました。」

 

その日、王為宇は会社の前で拉致された後、北京大興の法制訓練センターに入れられました。法制訓練センターは労働教育所を偽装したもので、法輪功学習者を閉じ込めるための施設でした。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「5、6人の体つきがいい大男が扉を蹴って入ってきました。恐怖心を植え付けたいのでしょう。大声で叫び、私の両腕を後ろから突き上げました。頭が床すれすれになり、手を挙げられると足が地面から離れてしまい、身動きが取れないまま、前に押されていきました。」

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「一万回の想像より一回の現実です。ある日そばにいる最も親密な人が突然消えてしまった。どこにいるのかも、どうすればいいのかも、わからないのです。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「大勢に殴られました。私の頭を目がけて上から思い切り肘を落としてきました。意識が遠のいていくとき、リーダーが止めに入りました。この殴り方だと死んでしまうから尋問できなくなる、スタンガンを使おうと言いました。スタンガンを直接首に当てられました。電源をオンにしたら、ずっと電池が切れるまで、当て続けました。それでも私が屈しないので腹が立ったのでしょう。今度はスタンガンを直接壁の220Vのコンセント口に繋げ、私の指先を一本ずつスタンガンの両極の間に入れて電気を流したり、全身あらゆる場所に電気を流しました。それでも足りず、私を地面に押し付けて肩甲骨の下の筋肉に直接スタンガンを押し込みました。スタンガンの尖った先端が肉の中に食い込み、電気を流されました。」

 

こんなにひどく拷問をした目的は、ほかの法輪功学習者の情報を吐き出させたいからです。王為宇はもうこれ以上耐えられないという時でも、虞超との約束を忘れてはいませんでした。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「当時、職に就いていたのは王為宇だけでした。彼が一人で働いて私達三人の生活の面倒を見ていました。表に出ていた彼は、簡単に見つけられてしまったのです。彼は私達にこう言っていました。『もし自分が捕まえられたら、君たちが逃げるため24時間の猶予を与えよう。24時間を超えたら、君たちの安全には責任が持てない』と言いました。この言葉を聞いて私は感服しました。彼はよく考えて話している、大言壮語を吐いているのではありません。与えるのは24時間だとしか言わなかったのです。私にはこんな約束はできません。自分が拷問にどれぐらい耐えられるのかがわからない。24時間を耐えるなどと言えないです。24時間と言った時、彼が全てを投げ出したのが分かった。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「ある時、言葉が口から出そうになりました。皆がどこに住んでいるのかを言おうとしたわけでないが、『お前はどこに住んでいるのか』と聞かれた時、もう肉体的な限界にきたことを感じました。私の顔は蒼白になり、冷や汗が水のように噴き出してきた。体の機能が乱れていました。彼らは、このままでは私が死んでしまうと思ったようで、殴る手を止めて水を飲ませ、少し落ち着かせようとしました。この時、まだ耐えられると感じました。彼らは私の様子を見て、歌を歌え、歌えばひとまず殴らないと言う。私が歌えないと言ったら、じゃあ何ができるのかと聞かれ、『論語』を暗誦できると言うと、それなら暗誦しろと言われました。彼らにとって、このまま私が死ななければ何でもよかった。私は『論語』を暗誦しました。捕まった時はたしかに怖かった。学生だったし、こんな残酷な場面を見たことがなかった。殴られたとき恐怖を感じ、怖かった。ですが、ここまでされたらもう怖くなくなった。私は冷静に、『論語』を暗誦しました。はっきりと一字一字、一言も間違いなく暗誦しました。彼らにこんな罪になることをさせ続けるわけにはいかない、全員寝たほうがいい、と心の中で思いながら。暗誦を終えた時、すべての人が地面に寝転がっていた。」

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「次の日の午後、私は虞超に電話をかけました。私は虞超夫婦と違うところに住んでいたので、すぐそこを離れろと虞超に言われました。私は身分証明書とお金と法輪大法の本をもって、虞超の家に行きました。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「彼女はそこを出て、まず家に来ました。彼女が粛殺の気が漂っていると直感しました。しばらくして、蕭晴 はあるものを取りに戻りたいと言い出しました。こんな危険な状態で何を取りに行くんだと思い、彼女に何を取りに行くのかと聞いた。すると、カメラのレンズだと言う。私は感動しました。こんな時だからこそ人と人の本当の絆が見えます。なぜカメラのレンズかというと、王為宇が一番好きなことは写真だったから。この時、王為宇が捕まえられ、いつ出て来られるのか、生きているのか死んでいるのかも分からないのに、蕭晴は彼のレンズを取りに戻りたいと言うのです。あんな危険なところに、彼女に行ってほしくはない。でも何も言えなかった。行っておいでとしか言えなかった。それだけです。人は誰にも大事にしているものがあります。そうでしょう? 何のために生きているのか?ただ食べたり、服を着たりするためではない。何か大事なもののためにすべてを投げ出せる。もし蕭晴が危険を冒してでもそのレンズを取りに行きたいのなら、私も彼女を手伝いたいと思った。」

 

蕭晴がレンズを取ったらポケベルを鳴らして待ち合わせ場所を決めると、虞超夫婦と約束しました。しかし、レンズを取って戻る途中に電話ボックスから虞超のポケベルを鳴らしても、折り返しの電話はかかってきませんでした。

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「私は電話ボックスから虞超のポケベルに電話をかけた後、離れたところで折り返しの電話を待っていました。一時間経っても電話がありません。信じられないことでしたが、現実を受け入れるしかなく、スーツケースを引いて、泊まる場所を探すことにしました。」

 

虞超夫婦は蕭晴がレンズを取りに行った直後、団地の入り口で逮捕されました。虞超はその日に派出所に送られ、王為宇と同じ法制訓練センターに入れられました。独房に閉じ込められ、誰とも接触を許されないまま一カ月が過ぎました。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「私は8月13日に独房に入れられました。9月12日か13日、そこへ10人ぐらい入ってきました。力いっぱい平手打ちされ、左腕を後ろにひねり上げられ、膝を内側に踏み付けられました。膝を内側に折られるととても痛いです。このように殴られながら、聞くに堪えない言葉で罵られました。映画やドラマのシーンのように、何かを聞き出したいわけではない。ただ人間の尊厳を砕き、精神を潰し、人格を粉々に粉砕したいだけです。でも、人が恥辱を感じるのは痛みを与えられたからではないと思います。正しいことをしたら光栄に思い、正しくないことをしたら恥ずかしいと思うはずです。痛みは苦痛であり、恥ではありません。恥辱を感じるべきなのは彼らです。彼らに名前を聞いても答えないですからね。往復ビンタされながら、私は今と同じ笑顔でそのうちの一人に聞きました。『この仕事をしていることを君のお母さんは知っているのかい?』『恋人はいるの?』殴られながら、彼とおしゃべりをしていました。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「私は彼らに押さえつけられながら、虞超が閉じ込められている部屋を通った。その部屋の隅に虞超は縛り付けられていました。ずっとヘビーメタルの重金属音の音楽が大音量で流され、眠らせてもらえず、毎日繰り返し気が変になるまで続くのです。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「彼らは私をベッドに縛り付けました。ベッドといっても木の板ですが。そして、両足はベッドの両端に白い布で縛りつけられ、両手は手錠でベッドに繋がれ、腰は縄でベッドに縛り付けられました。その時、私の左腕の関節はすでに痛みで上がらなくなっていました。いきなり引っ張られると激痛が走ります。こんなに痛いのは今まで経験したことがありません。縛られた時、後半日を経てばあきらめろうと思いました。半日が経ったとき、少し回復した気がして、あと一日待とうと自分に言い聞かせました。こうして私は100日を耐え抜きました。彼らは私が耐えられると思わなかったし、私自身も思わなかった。とうとう最後まで何も言いませんでした。」

 

2002年まで、清華大学の法輪功修煉者の多くは投獄や亡命の運命を辿りました。後には、家族の絆をばらばらに壊された人々が残されました。そして、周りの心優しい人々が一生懸命その家庭を見守ろうとしていました。

 

兪平(ゆ へい)清華大学熱工学学部1997年博士課程:「当時、私も妻も逮捕されました。子供が残されましたが、妻の父親と弟は面倒を見ることができなかったので、ある女性の同修が私たちの子供を受け入れて育ててくれました。この同修は子供の毎日の生活の本当に細かいことまで日記につけてくれました。この日記を見る度に、涙をこらえきれません。」

 

同修が兪平さんの娘のために書いた童謡:女の子の歌

小さな白い花よ

青空の下で

なぜ歌う

父がいなくなった

風よ、雲よ

父を信じている

空の果てにいても

私のことを思っている

小さな白い花よ

青空の下で

なぜ歌う

母がいなくなった

苦しくても、寂しくても

怖くないよ

雪溶けを待って

一緒に家へ帰ろう

 

2002年、中国の東北部で世を震撼させる事件が発生しました。3月に長春の法輪功学習者が8つのテレビ局に割り込んで、法輪功弾圧の真相を訴える映像を放送したのです。この時、50万人が視聴しました。そして年末、この事件に関わった法輪功学習者が最高18年の重い刑を言い渡されました。その冬はとくに寒く感じました。

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「彼らのことを聞いて、他人事ではありませんでした。私の家族も牢獄にいます。その年、北京はとても寒かったです。主人が出て来てから知りましたが、牢獄にいる間彼はずっと逮捕されたときの服を着ていたそうです。出張に行くときのワイシャツとズボンで、洗濯も許されず、冬用の服もなく、ただ足を抱えて丸くなってその寒い冬を忍んでいました。」

 

ある意味では、彼らの時間は逮捕された時のまま永遠に止まったままなのです。王為宇も虞超も蕭晴も、自分たちの感情と心境をある状態に保とうと努めています。過去について、何を忘れ、何を覚えるか、自分自身で選択しているのです。

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「毎日何も考えないようにしていました。ただ決めたことをしていました。まずは覚えている大法はどれぐらいあるかを確認する。これは私の支えですから。そして自分に言い聞かせました。決して彼らに変えられてはならない、彼らを変えることがあっても、決して変えさせない、と。これが私にとって重要なことだから、大法を覚えていなければならない。毎日覚えている大法の内容をすべて思い出して、これを語呂合わせしやすいものにしました。1つの文章、1つの詩を一字で表し、毎日これを覚え、転向られていない同修と会うチャンスさえあれば、新しい経文があるかと聞いていました。これは私にとって最大の関心事です。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「私は残酷な場面をたくさん見ました。虐待を受けた法輪功学習者の様子もたくさん見てきました。初期に告発された多くの写真は私が出したものです。当時、彼らを迎え入れ、泊まる場所を探しました。最も重要なことは感情と現実を分けることです。でなければ精神が崩壊してしまう。感情や思考の機能が壊れてしまいます。足が半分真っ黒になり、踵を地面にこすりつけて歩く人を見ました。黒竜江省の真冬の夜、彼らが彼の服を剥がし、ひざ下まで雪に埋めた後、盆に酒を入れ、彼の体に注ぎました。一晩中ずっと注いでいました。彼の足はひどい凍傷になりました。凍傷は熱傷と同じような感覚になり、昼夜眠れないほど激しく痛みます。私は凍傷の具合を確かめるため、直接その足を見なくてはなりませんでした。その時は平静を保って接していました。私が冷静でいなければ、この情報を外に出すことができなくなるから。本当は心の奥深くに傷が刻まれていました。とくに女性修練者が受ける性的虐待はひどいものでした。北京大北窯橋の下で、彼女は警察に強姦されました。私は彼女を外国の記者に会わせ、取材を受けさせました。彼女をこれ以上苦しませないように、彼女との接触はみな女性の同修に頼みました。これは私が彼女にしてあげられる唯一の事でした。私は彼女のために何もしてあげられなかった。私にとって最も苦しかったことは何か知っていますか?それは大きくて未だに消せない苦しみです。それは、助けたい人がいるのに助けられない、手を伸ばしたいのに伸ばす能力がないことです。このことは、自分が苦しめられるよりも苦しいです。このようなことが長い間続いて、それが蓄積されていきました。牢獄にいた間、これらの事が何度も何度も繰り返し脳裏に浮かびました。目を背けずに直視しながら、自分に言い聞かせました。『虞超、これらの事は現実にあったことだ。忘れるな。彼らが死んでいったことを。お前はまだ生きている。何かできるはずだ。だから強くなれ』と。時に思い返してみて、心が痛みで砕けていないだけでも奇跡だと思います。」

 

虞超夫婦と別れた蕭晴はその後捕まることなく、香港資本の小さな会社で職を見つけ、8年間勤めました。王為宇と虞超の仕事、外国の記者との連絡は彼女が受け継ぎ、一日も休むことはありませんでした。ほかの清華大学の法輪功学習者と一緒に長年にわたって逮捕された学友たちを助けようと奔走しました。

 

2013年、蕭晴はアメリカに渡りました。

 

2003年9月、劉文宇釈放される。2005年8月にカナダへ渡り、学費免除と奨学金を受けてカルガリー大学に入学、博士号を取得。

 

2005年12月、黄奎釈放される。2008年3月にアメリカへ渡り、学費免除と奨学金を受けてオハイオ州立大学に入学、博士号を取得。

 

2010年1月、孟軍釈放される。2012年7月にオーストラリアに渡り、学費免除と奨学金を受けてクイーンズランド大学に入学、博士学位を取得。

 

2010年4月、兪平釈放される。2013年4月にオーストラリアに渡り、学費免除と奨学金を受けてクイーンズランド大学に入学、博士学位を取得。

 

2011年2月、王為宇釈放される。2013年7月に渡米。

 

2012年2月、虞超釈放される。2013年5月13日に家族と共に渡米。

 

劉文宇(りゅう ぶんう)清華大学熱工学学部1999年博士課程:「(アメリカで)王為宇と再会した時、お互い強く抱きしめ合いました。彼の顔や体に虐待を受けた傷跡が残っているかどうかを見て、何も残っていないのを確認したら、ホッとしました。虞超に会った時もそうでした。まず傷跡があるかないか見た。彼らが迫害を受けていた時、ほかの同修がその状況を国外のネットで公表していました。それを見た時本当に悲しくて、私は泣きました。だから再会した時、真っ先に傷跡があるかどうかを確認したかった。」

 

2016年5月13日、法輪大法が世に伝わって24周年になりました。世界の100を超す国で大勢の人が法輪功を修煉しています。『転法輪』は38の言語に翻訳されています。現在、中国では20万の民衆が法輪功を弾圧した中国共産党元総書記の江沢民を告訴しています。その中には33名の清華大学の元教師と学生もいます。

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「18歳で大学に進学した時、クラスの学級委員に印を彫ってもらいました。『朝に道を聞かば、夕に死すも可なり』と彫ってもらい、私は持っているすべての本に押しました。『道』は何かを知りたい。この世には『道』があるのか、あるいはないのか。もしあるなら、それは何なのか。本当に知りたかった。もし朝に『道』を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも後悔しない。嬉しいことに法輪大法の修煉を通じて、生命の意義が分かったのです。自分の命をかけてこの意義を実践したいと思います。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「私は1つの生命はさまざまな元素で構成されていると思います。私という生命を構成する元素は、正しい元素であるべきだと考えています。それは『真善忍』に従うものであるべきであり、もし私が『真善忍』に背くなら、自分の命に背くことになり、自分の命を殺めてしまうことになります。『真善忍』と同化することが自分の命が存在する意味であり、私のすべきことなのです。」

 

終わりに

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「実は驚いています。孟軍、或は黄奎など、なぜこんな人が来るのだろうと、びっくりしました。とくに王為宇などは順風満帆な人生を歩んでいたのに、なぜ修煉をしにきたのでしょうか。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「みなも思っていることですが、なぜ彼のようなロマンチストで質の高い生活を求める人が、突然、修煉に興味をもったのでしょうか。」

 

虞超 清華大学精密機器学部1995年卒業:「彼には純粋な一面があるんです。人の心を操ったり、状況をコントロールできる反面、万物を憐れみ慈しむ心を持っている。このことこそが何よりも貴重なことだと思います。人を左右できるのにそうしないで、同情心を持って接するなんて、なかなかできることではありません。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「彼は私よりも背が高くて大きくて、いつも溌溂と歌を歌っていて、豪快な人だなという印象でした。それがある時、私の側を通りかかった彼から、『よう後輩!』と肩を叩かれました。」

 

蕭晴 清華大学精密機器学部1999年修士学位取得:「物事を成し遂げようとするとき、ただ思っているだけではできません。己という個をまず置いておいてから初めて物事の本質を知り、成し遂げられるようになります。或いは己を思う気持ちを他人に向け、相手にその思いを伝えることができた時にも成功するでしょう。」

 

黄奎 清華大学精密機器学部1999年博士課程:「学業も将来も失ってしまうことは分かっていました。当時の考えはただ純粋で、これらのことはどうでもよかった。法輪功、法輪大法が一番です。」

 

劉文宇 清華大学熱工学学部1999年博士課程:「法輪功を修煉してから、私は本当に幸せです。生きていく目標は人のためとなりました。人のために生きる1つの生命になりたいです。」

 

王為宇 清華大学精密機器学部1996年博士課程:「今も昔も、自分は最も国を愛する者の中の1人だと思っています。なぜなら、真実を言うためにすべてをかけたのですから。もし、皆が同じようにできるなら、我が国はきっと良い国になるでしょう。」

 

http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2016/07/22/a1277154.html(中国語)

(翻訳/小松 映像編集/Ann)

清華大学の物語,法輪功,世事関心,清華大学

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