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【禁聞】天安門事件 弾圧をした軍人が涙の告白

2014年05月30日

【新唐人2014年5月30日】天安門事件25周年を前にして、中国軍瀋陽軍区の元軍人、李暁明さんがテレビカメラの前で、当時、命令に従い、自ら学生を鎮圧したことを幾度も涙ぐみながら語りました。

 

李暁明さんは、中国人民解放軍瀋陽軍区39軍1164高射砲団の中尉でした。先日、香港のnowテレビの取材に応じ、当時学生運動を弾圧した体験を語りました。

 

李さんによると、39軍は北京の東から天安門広場に入りました。途中、学生と庶民に銃を向けないよう訴える民衆に阻まれました。しかし6月3日夜、暴徒が軍人を殺したと上官から聞かされ、みな義憤で胸がいっぱいになりました。この時、上官から銃弾を与えられ、天安門広場に入りデモ参加者を排除するよう命じられました。

 

3日の深夜、団長の指示を受けた部下が天安門広場の状況を探ると、他の軍隊がすでに発砲し鎮圧していました。39軍は4日の早朝、広場に入り、逃げる学生や民主活動家を捕まえました。

 

すでに25年が経ったものの、当時の話になると、李さんは涙が止まらず「これは恥だ」と語りました。

 

中国政法大学・元講師 呉仁華さん

「軍人は6月3日夜、天安門広場に入り、市民に発砲し殺しました。当局は彼らを臨時の駐屯地に隔離し、民衆や学生と接触させず、真相を知らせませんでした。当局は吹聴しました。『多くの戒厳部隊の軍人が、暴徒に拉致され殺されたうえ、武器が奪われて、暴動が起こった』と、軍人は反革命暴動が起こったと思い込んでいたのです」

 

天安門事件を目撃した呉仁華さんは著書、「六四事件における戒厳部隊」で、戒厳部隊が北京に入ってきたルートや北京での行動、虐殺の起きた夜の彼らの任務について、詳細に記しています。

 

国営メディア、新華社通信の首席記者でラジオテレビ部の副部長だった謝文清さんは、天安門事件の残虐な弾圧の模様を目にしました。

 

謝さんは「死心篇」という文章の中で、燃やされた装甲車が整然と並んでおり、車間距離は均等で、車両はすべて東を向いていて、軍事パレードのようだったと述べ、軍事記者の体験から、ひと目で当局の仕組んだ陰謀だと分かったそうです。

 

しかも、それらの装甲車は旧型の装備であり、恐らく市民に変装した軍人が燃やし、「暴徒」の仕業に見せかけたのだろうと指摘しました。

 

これまでのところ、天安門事件の弾圧に加わったと告白した軍人は合わせて3人います。戒厳部隊の兵士だった張世軍さんは、長年、北京市郊外の霊園を訪れ、事件の犠牲者を悼んでいます。また、犠牲者家族に謝罪したこともあります。2012年、天安門事件の起きた6月4日の前夜には、当時の軍服を着て天安門広場で黙祷を捧げました。

 

中国政法大学・元講師 呉仁華さん

「この3人は後で暴動など起きていなかったと真相を知りました。彼らが殺害したのはいずれも丸腰の市民でした。真相を知ってから弾圧は恥だと感じたのです」

 

天安門事件の犠牲者家族の組織、「天安門の母」のメンバー、張先玲さんの夫、王凡地さんは、弾圧を続ける当局を批判しました。

 

「天安門の母」張先玲さんの夫 王凡地さん

「例年よりも厳しいです。4月から、我が家は24時間見張られています。我々が取材を受けるのを当局は望まないのです。治安維持組織や派出所、町内会のメンバーなど、24時間12人が交替で監視しています」

 

5月28日、アメリカ下院は中共当局に対し、天安門事件に関する情報封鎖をやめ、言論と信仰の自由を求める中国人を監禁したり、虐待しないように訴える決議を採択しました。民主党のペロシ院内総務は戦車の前に立ちはだかった中国人、王維林さんの写真を取り出し、「これは世界の民主自由の歴史において、最も象徴的な写真だが、中国で若者にこの写真のことを聞いても、彼らはまったく知らない」と語りました。

 

新唐人テレビがお伝えしました。

 

http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2014/05/30/a1112792.html (中国語)

(翻訳/河合 ナレーター/萩野 映像編集/工)

 

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