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【シークレット・ファイル】中国版脱北者 血塗られた改革開放 第2回――冷戦期 最大の集団脱出劇

2011年01月11日
【シークレット・ファイル】中国版脱北者 血塗られた改革開放 第2回――冷戦期 最大の集団脱出劇

これは30年にわたる、驚愕と感動の逃亡史である。

 
当時の深センには、こんな民謡が流行っていた。“深セン市・宝安県には、3つの宝しかない。ハエと蚊、そして牡蠣(かき)だけだ。十中八九は香港へ逃げ、家には老人と子供しか残っていない”
 
民謡の背後には、驚愕の数字が存在する。陳秉安が手に入れた目下、閲覧可能な文書によると、1955年から香港への脱出が開始。脱出の波は、1957年、1962年、1972年、そして1979年の4度起こり、計56万人。広東省、湖南省、湖北省、江西省、広西チワン族自治区など全国12の省、62の都市の人々が香港へと押し寄せたのだった。
 
その多くは農民だったが、都市住民や学生、知識人、労働者、さらには軍人もいた。政治的階級から見れば、普通の庶民が多いものの、共産党青年団の団員や共産党員、ひいては共産党幹部の姿すらあった。深セン市のあるデータによれば、1978年、市全域の幹部の中で、逃亡に関わったのが557人、逃亡したのが183人、市の直属機関では、副課長以上の幹部40名が香港へ脱出。
 
脱出方法は、歩くか、泳ぐか、船に乗るかの3種類だった。ルートは東と中央、西に分かれる。泳ぐのが一番ポピュラーで、西ルートを選ぶ者が多かった。まず、蛇口、紅樹林一帶を出発し、深セン湾を泳いで、うまくいけば、大体1時間で香港・新界西北部の元朗に到着する。
 
広東人はこのように泳いで脱出することを“督卒”と呼ぶ。これは将棋用語で、“行って戻ってこない”の意味である。地元の人の記憶によれば、夏になったら、かつてダムや川は人であふれていた。なんでも親は、子供に小さい頃から“水泳の練習をしっかりして、香港にいけるようにしなさい”と言い聞かせていたそうだ。
 
大陸からの脱出者は通常、タイヤあるいは浮き輪、発泡スチロールなどの救命道具を付けていた。大量のコンドームを膨らませて、首にかけていた人すら見られた。
 
当時、上述の物は使用が厳しくコントロールされていたので、後に、卓球ボールすら使われるようになった。数百個の卓球ボールを数珠つなぎにして、救命道具代わりにしていたのだ。
 
泳いで渡るのはやはり若者が中心であり、中高年や子供、女性は陸地からの脱出を選んだ。深センの梧桐山、沙頭角から鉄条網を越える。ただし警察犬を避けるために、脱出を図る直前、動物園の飼育委員に袖の下を渡して、虎の糞を手に入れていたという。これを移動しながら撒いていけば、この臭いを嗅いだ警察犬は追跡しないという。
 
当時、脱出を図る者への取り締まりは過酷さを極めていた。合法的手続きを経ずに香港に渡るものは皆、“国の裏切り者”とみなされ、捕まれば収容所送りとなった。脱出者にとって、最大の障害、それは国境警備隊である。1960年代まで、国境警備隊は、命令がなくとも脱出者にいつでも発砲できたため、多くの脱出者は干潟や山奥で命を落とした。この後、上からの厳しい命令により、銃撃現象は徐々に消えていった。
 
この危険極まりない香港への脱出の嵐は、新たな職業を生んだ。それが“死体処理業者”。ピーク時で、深センでは200余りの死体処理業者が活躍していた。1970年代末、深セン蛇口海上派出所は、死体一体処理するごとに、蛇口公社から15元の労務費を受け取れるとの規定を定めていたことがあった。
 
陳秉安は、当時の死体処理業者に取材したことがある。元業者だという老人によれば、1日で最も番多くて、750元公社から受け取ったことがあるという。老人が埋葬した遺体50体のうち、4体は自身の親族であった。
 
このほか当時、国境を強制突破する状況も見られた。
 
宝安県委員会“群衆の香港に流入を阻止する作業の報告”などの記録によれば、1962年、広東省で深刻な飢饉が発生。大量の住民が香港への脱出を図ったため、宝安県の東西100キロ余りの道路には、地方から来た人々が群れをなし、老若男女が身を寄せるようにして押し寄せてきた。“大群が南下、怒涛の勢い”とはよくいったものだ。
 
彼ら脱出者は、それぞれ130センチほどの長いこん棒を手にしていた。先頭に立つ者はこれについて“我々を阻止する者に対し、我々はこん棒を使い命がけで戦う。発砲されても、前進あるのみ、決してひるまない”と公言した。

 

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