【新唐人2017年9月7日】
薛蔭嫻(せつ いんかん)さんは、かつて中国体操チームのドクターとして、李寧(り ねい)選手などオリンピック金メダル選手のスポーツドクターを務めました。1988年、李寧選手へのドーピング指示を拒否すると、その後数十年に亘って薛さんと薛さんの家族は政治迫害を受けました。薛さんと息子一家は現在ドイツで亡命を申請しています。
薛さんは1960年代から中国国家体育委員会(現国家体育総局)の一員として、数十年に亘って働き、11チームの中国チームの医務監督組長を務めたこともありました。
1970年代の終わり頃、中国のスポーツ界ではドーピングが氾濫するようになります。薛さんはこの風潮に異議を唱え、革命幹部子女の立場から告発者へと変わったのでした。
中国選手団元医療責任者 薛蔭嫻さん:「1980年~1990年代から、ドーピングに反対してきました。中国では代表チームのみならず、青少年や体育学校など、全国規模でドーピングが氾濫していました。」
薛さんは、当時、国家体育総局訓練局を牛耳っていた李富栄(り ふえい)副総局長が、ドーピング使用を推進していたと指摘します。選手は服用していた興奮剤が健康被害をもたらすことなど知りませんでした。当時、興奮剤は「特殊栄養薬品」と呼ばれ、全国各地に広まっていたからです。
中国選手団元医療責任者 薛蔭嫻さん:「興奮剤を服用した選手は20年後に肝臓癌で死亡したり、心臓や血管へのダメージや、運動神経や筋肉、腱の損傷、さらには骨粗鬆症や骨折などの影響が現れます。」
薛さんの親戚にも興奮剤を服用した運動選手がいます。その人は性転換症になり家庭は崩壊、脳神経にも影響を及ぼします。
1988年のソウルオリンピック開幕を前に、中国代表チームは練習強化のほかに、あることを計画していました。
中国選手団元医療責任者 薛蔭嫻さん:「1988年7月13日のことでした。李富栄が代表チームの11種目のチームの総監督やコーチ、医療チーム幹部を召集し、どうやって興奮剤を使用するか話し合いました。7月13日といえば、開幕まであと一月ちょっとという時期で、こんな時に興奮剤をどうやって使用するか話し合っているのです。私は医務組長でしたが会議に参加させてもらえず、代わりに私の部下の医師が参加しました。会議では大勢の選手が興奮剤を服薬することになり、李寧もそのうちの一人でした。
「中国体操界のプリンス」の異名を取る李寧は当時すでに25歳で、体力面から興奮剤を打たなければならないとされましたが、薛さんはオリンピック精神を守るため、強く反対しました。
中国選手団元医療責任者 薛蔭嫻さん:「会議では、薛蔭嫻が管理する体操チームは興奮剤を使わさせない、と名指しで批判されました。その午後、女子チームの練習場へ高健総監督が私を訪ねてきたので、私は、もし有名な李寧に興奮剤を使用させれば、あなたも私も、李寧も名誉が汚され、中国の品格も損なわれると彼に言い、また、李寧への健康被害も理由に薬物の使用に反対し、拒絶しました。」
結局、李寧は勝てませんでした。彼は、当時スポーツは金メダル獲得のためのものでしかなかったと振り返っています。
ドーピング指示を拒んだことで後に大変な目に遭うことを、当時薛さんは想像していませんでした。
中国選手団元医療責任者 薛蔭嫻さん:「李富栄が私を迫害しました。私の主人が殴り殺されました。2人の息子も職を追われ、次の仕事に就いてもすぐに解雇されました。私は責め立てられ、2度も脳梗塞を発症しました。生死の境を乗り越えましたが、言葉がしゃべれなくなるなどの多くの後遺症を患いました。」
代表チームでの職を解かれた薛さんは、その後も迫害を受け続けます。2008年の北京オリンピックが開幕する前、ドーピングについて一切語らないようにと当局に脅迫されました。開頭手術を受け退院してきたばかりの薛さんの夫は、当局のやり方に抗議したため、殴り倒され、そのまま死んでしまいました。
中国選手団元医療責任者 薛蔭嫻さん:「中国のような強権国家では、他国のようにドーピングするかどうかは個々の選手が決めることではありません。国の決定に従わなければ、生きる道はありません。よくて解雇、そうでなければ迫害を受けるのです。」
薛さんがこれまでに公にしてきた証言によれば、興奮剤の使用は国家指令であることが分かりますが、政府は興奮剤の使用を容認したことはないとして、認めていません。薛さんは中国の運動選手のドーピングの主導者らを大量に記録した68冊の勤務日誌を携えて、ドイツに亘りました。
新唐人テレビがお伝えしました。
http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2017/09/06/a1341080.html(中国語)
(翻訳/白白 映像編集/李)