【新唐人2009年9月14日付ニュース】政権確立60周年を迎えるため、中共国務院報道主催の「中国ネット」では、「新中国で最も影響力のある文化人物」のネット選出が行われ、最終的に台湾の歌手テレサ・テンが854万表を獲得しトップとなった。テレサ・テンの歌は長期間大陸で禁止され、反中共の彼女が生前大陸を訪れることは実現できなかった。
「中国ネット」は7月24日から8月31日までの間、「新中国で最も影響力のある文化人物」のネット選出を行った。192人の候補者から、台湾歌手テレサ・テンが854万表の獲得で、第一位にランクインし、2400万人の投票者の35.7%を占めた。
大陸のネットユーザーらに「国民歌姫」と称されているテレサ・テンは、80年代の中華圏および日本の芸能界のスターである。ウィキペディアによると、CDの総売上枚数は4800万枚を超え、中華圏では女性歌手トップの座を維持している。
メロディーがやさしく美しいテレサ・テンの歌は、中共によって「みだらな音楽」とされ長期にわたり禁止。文化大革命の後大陸で解禁されると、一世を風靡し、80年代ポップスのシンボルとなった。当時の中共文化部部長の劉忠徳までもが彼女のファンだったという。
彼女の名は中国で知れ渡り当時の中共最高権力者の鄧小平と肩を並べ、似た愛称がつけられジョークに使われるなどした。
彼女の名は中国で知れ渡り、「小鄧」のあだ名が付けられ、当時の中共最高権力者の鄧小平と肩を並べた。「昼は老鄧(鄧小平)の言うことを聞き、夜は小鄧(テレサ・テン)を聞く」、「愛するのは小鄧だけ、老鄧はいや」といったジョークが民間では流行っていた。
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テレサ・テンが中国の音楽に与えた影響は大きい。80年代、大陸には大物の女性歌手が多くいたが、みなテレサ・テンのスタイルを真似て売れ出したのであった。しかし、彼女は生前大陸を訪れることはなかった。
元中共文化部部長の劉忠徳は「南方週末」の取材で、「彼女は国民党のスパイ組織に参加したことがあるとの情報があり、調査が必要。」と言った。しかし、調査結果が明らかになったとき彼女はもう帰らぬ人となっていた。95年5月8日タイで突然なくなった。
テレサ・テンの弟によると、彼女の最大の願いは中国の地を踏み、天安門広場で大型コンサートを開き、中国の国民に好きな歌を捧げることだったという。
大陸行きを計画していた矢先、1989年、北京で「天安門虐殺事件」が発生。彼女は香港で30万人が参加した抗議集会で、「軍事統制に反対」と書いた鉢巻をして、その日のために創作した曲を熱唱した。
天安門事件がきっかけで、彼女は、「私が大陸で歌うその日は、三民主義で中国が統一される日である」といったことがある。
91年、彼女は台湾金門島で大陸に向けてラジオで呼びかけたことがある。「大陸の同胞も私たちと同じように自由と民主を味わって欲しい。自由、民主、裕福な生活環境があってこそ個人の理想を実現する機会が生まれる。若者が自由に才能を発揮できてこそ、国にも明るい希望がある。」
95年5月8日、彼女は喘息の発作によりタイで急死した。享年42歳。同年香港では彼女に「金針賞」を追贈。台湾政府からは褒揚令が出され、総統よりは「芸苑揚芬」という額が送られた。中国の中央テレビもこの台湾のスター歌手の死去を報道したが、これは中央テレビでのテレサ・テン初登場となった。
今になり中共が「新中国で最も影響力のある文化人物」の選出を行い、皮肉にもテレサ・テンがトップに。彼女本人は一度も「新中国」を認めたことはなかった。ネットユーザーらは、「彼女は大陸に来たこともなく、中共によって封殺されていたのに、この選出は中共が自分自身をからかっているのか、それとも大陸の民衆が中共をからかっているのかわからない」と酷評している。