【新唐人2014年10月30日】香港市民がデモを始めたきっかけは、中共当局が今年8月に発表した非民主的な選挙制度に反対したことでした。これに対して中共メディアは、中共はかつてのイギリスよりもずっと民主的な制度を与えており、イギリスは香港の民主化の基礎をまったく築かなかったと批判しました。しかし、ある機密文書によると、香港の民主化を阻んでいたのは他でもない中共でした。
イギリスの公文書館にあるFCO 40/327号文書は、数十年間、機密扱いでしたが、2002年に解禁になりました。
文書には、香港の民主に対する中共の態度が記録されています。1958年1月30日、周恩来(しゅう おんらい)は北京でイギリスの官僚を呼びました。「中共はイギリスが香港に民主を与えることに反対し、香港の植民地の地位をいささかも変えないよう希望する」ことをマクミラン首相に伝えてもらうためです。
第2次世界大戦後、中共は香港に対して「長期的な視野で十分に利用する」ことを決めました。なぜでしょうか。
別の機密文書、FCO 40/160号文書によると、中共は政権樹立当初、国際社会に受け入れられなかったので、中共にとって香港は外国為替や貿易のための飛び板になりました。また中共はイギリス統治下の香港で、交渉を有利に進めるための情報を収集していました。
同じ時期、イギリスは他のアジアの植民地で政治改革を進めました。インド、パキスタン、マレーシアなどは普通選挙や住民投票を通じて、独立を果たしたのです。しかしこの間、香港はまったく変化がありませんでした。中共の強硬な態度が原因です。
1960年、中共はイギリスに対し、香港の自治を許すなら、中共は迷わず行動し香港を奪うと直接、脅しました。
その結果、香港の民主化は数十年も遅れました。80年代末、最後の香港総督、クリストファー・パッテンが中共の統治に対する香港人の不安を和らげるため、一定の改革を進めたところ、中共から「歴史に残る罪人だ」と名指しで非難されました。
しかし、香港の民主化を阻んだ元凶は誰なのか、文書がはっきりと答えを示しています。
新唐人テレビがお伝えしました。
http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2014/10/29/a1149653.html(中国語)
(翻訳/河合 ナレーター/萩野 映像編集/李)