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中国古代の10大美女(前半)

2016年04月14日

【新唐人2016年4月14日】
皆さん、こんにちは。「外国人が見る中国」へようこそ! 私は郝毅博(ハオ イーボー)です。中国古代の美女を題材とした作品は、文学、映画、テレビ、ドラマなど、たくさんあります。今日は、皆さんと一緒に中国古代の10大美女について、見てみたいと思います。

 

先ずは、「西施」(せいし)。彼女は、春秋時代の浙江省の出身で、本名は「施夷光」。西の村に住んでいることから「西施」と呼ばれるようになりました。東側に住まいのあるもう1人、施氏のお嬢さんは、後の「東施效颦」(ドング・スィー・シアオ・ピン)(醜 女(しこめ)が美女の真似をして眉をひそめる猿まねをする)の「東施」です。「西施」は、元々川沿いで紗(しゃ、薄い絹)を洗う作業をしていましたが、越王勾践(こうせん)が、復国の為、呉王夫差(ふさ)に西施を献上しました。夫差は、美女に惑わされ、国政を荒廃させました。これは、中国史上、初の政府主導のハニートラップ(甘い罠)だと言う人もいます。「素晴らしい強運の方ですね。お名前を…」「ボンド、ジェームズ・ボンド」。西施に関する文学作品が多く、私が最も好きなのは、宋の文豪蘇軾(そしょく)が、西湖に西施のイメージを重ねた詩を作った次の詩です。「若把西湖比西子 (若し西湖を西子に比すれば)淡粧濃抹總相宜(淡粧 濃抹總て相ひ宜し)」(もし西湖をあの西施に例えるとしたら、淡い化粧も濃い化粧もいずれも似合います。)

次 は、「王昭君」(おうしょうくん)です。王昭君と言うと、皆さんは自ずと「昭君出塞(しょうくんしゅっさい)」を連想するでしょう。漢の時代、匈奴が漢の朝廷に、政略結婚を持ち掛け、王昭君は漢の代表として、匈奴の単于(ぜんう)に嫁ぎました。「昭君出塞」に関して、王昭君が自ら請願したかどうか、史書の記載はさまざまです。しかし、私は1つの物語に興味をそそられます。当時、民間の女性が宮廷に入って宮女となり、その後、皇帝が妃を選びますが、あまり人が多 くて、今のようにFacebookもないので、宮廷の絵師が描いた絵を参考にしていたと言います。王昭君は絵師毛延壽(もうえんじゅ)に賄賂を渡さなかったことで、醜く描かれ、選ばれませんでした。後に匈奴に行くことになって、漢元帝が自分の家にこんな美人がいるのを知らなかったのに匈奴に提供しなくてはならず、怒り心頭で、毛延壽を殺しました。

3番目は、「貂蝉」(ちょうせん)です。貂蝉は、今日の 紹介の中で、特別な美女です。歴史学者によると、彼女は実在の人物ではなく、文学作品の架空の人物です。でも、彼女はあまりに有名で、中国古代の4大美女の1人とされていることから、ここでも紹介しましょう。『三国志演義』の中で、貂蝉は大臣王允(おういん)の義理の娘で、彼女「2、8」すなわち、16歳の時のことです。中国語は面白いですね。王允は当時、朝廷を牛耳る董卓(とう たく)に失望しており、貂蝉はそれを知り、報国の念を持ち、もちろん黒ずくめで後ろ回転しながらではなく、自分の美しさを利用しようと考えました。ハニー トラップを使い、呂布(りょふ)に董卓を殺させました。『三国志演義』の注には、18の諸国でも董卓を殺せなかったのに、貂蝉1人で成功したと書かれています。

4番目は、「楊貴妃」です。楊貴妃は、前に紹介した3人と並んで 「沈魚落雁(ちんぎょらくがん)」(魚や雁も恥じらって、身を隠すほどの美しさ)、「閉月羞花(へいげつしゅうか)」(月が雲間に隠れ、花が恥じてしぼむほどの美しさ)の4大美人の1人です。中国語は美しいですね。もし、これを英語で話したら、you make fish drown (貴方は魚でも溺れて死なせる) or you make bird crash (鳥も落とされてしまう)となるでしょう。外国人は、きっとこの女性を怖がることでしょう。美しいなんて考え付かないでしょう。

楊貴妃は、正史の中で、「楊太真」(ようたいしん)と呼ばれ、「楊玉環」(ようぎょくかん)や「楊玉奴」(ようぎょくど)と呼ぶ人もいます。彼女は、唐玄 宗が寵愛していた妃で、外見から、唐ではぽっちゃり系が美しいとされていたのが分かります。楊貴妃は26歳で妃となり、白居易の『長恨歌(ちょうごんか)』の中 で、「後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身」(後宮には三千人の美女がいたが、三千人分の寵愛をいまや一身に受けている。)や「天生丽质难自弃」(天性の美は 自然と捨て置かれず)というくだりは彼女の美しさを称えています。正史によると、楊貴妃は37歳の時「安史の乱(あんしのらん)」で亡くなりました。しか し、彼女は、日本やアメリカ大陸に逃亡したという説もあります。楊貴妃に並ぶ次の美女は、熟語「環肥燕瘦(かんびえんしゅ)」の「趙飛燕」です。

趙飛燕は、楊貴妃より時代が先で、漢の人です。最も有名なのは、彼女の踊りです。『漢宮曲(かんきゅうきょく)』で、趙飛燕は人の掌で踊れると書かれていますが、もちろんそんなことはありません。これは、彼女の踊りの例えです。李白(りはく)も、『清平調(せいへいちょう)』で、楊貴妃と趙飛燕のことを書いています。「借問漢宮誰得似 可憐飛燕倚新粧」(借問す 漢宮 誰か似るを得たる 可憐な飛燕 新粧に倚る)。意味は、漢宮にいる趙飛燕でもお化粧に頼っているということです。彼は、楊貴妃のほうがきれいだと思っています。もちろん『清平調』は、唐玄宗に書かされたものですから、皇帝の前で、昔の朝廷の妃の方が美しいなんて言えません。これは、まさに、清朝の剣で明朝の大臣を殺すことになるでしょう(反乱を起こすことを指しています)。李白は、やはり、 「詩仙(しせん)」と呼ばれるほどの人で、詩の冒頭の「雲想衣裳花想容(雲には衣裳を想い 花には容を想う)」は、千年経っても、その美しさに思いを寄せてしまいます。

趙飛燕は、踊り子から皇后まで登りつめ、更に皇太后にもなりましたが、結局、宮廷の権力闘争で自殺にまで追い込まれました。妹も、皇帝の妃で、彼女より6年前に同じ運命を辿りました。

以上、中国の古代10大美女の前半5名です。次回は、次の5名を紹介します。中国古代の興味深い美女にまつわるエピソードを美しい中国文化と芸術の映像とともにご紹介いたしました。皆さんのコメントをぜひお待ちしております。

ここで、ニューヨーク神韻芸術団の台湾巡回公演のお知らせです。その踊り、音楽から伝わる精神世界の美しさを体験していただきたいと思います。紹介映像をご覧ください。では、今日はここまで。また、次回お会いしましょう。


新唐人テレビがお伝えしました。

http://www.ntdtv.com.tw/b5/20160401/video/92182.html (中国語)

                                                              (翻訳/小松 映像編集/黃)

 

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