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中国「超生児」の運命(3)

2012年08月26日
中国「超生児」の運命(3)
胎児を食べる
 
私が黄さんと初めて会ったのは1976年1月だった。当時、彼はある国営運輸会社の運転手で、私の故郷の内モンゴルに会社のために羊肉を買うために来ていた。その後、黄さんと再会したのは1982年、私が大学に入学した後だった。モンゴルのナイフはとても綺麗なので、冬休みに実家に帰ったら一つ買ってほしいと彼に頼まれた。1983年3月、私はナイフを持って黄さんの家を訪問した。彼は嬉しそうにビールを出して歓待してくれた。そのうち彼の友人が来たので、3人でビールを飲みながら世間話をした。その時黄さんが胎児を食べた経験を話してくれたのである。
 
黄さんは健康状態があまり良くなかったため、栄養補給のために胎児を食べたという。彼の妹が病院から妊娠8ヵ月で流産した胎児をもらってきて、電気炊飯器で煮込んでくれたと言った。気持ち悪くなかったのかと聞くと、「気持ちは悪かったけど、健康のために目をつぶって食べた」と言った。「妊娠8ヵ月の胎児だから、髪の毛もあっただろうに、どうやって食べたのか」と聞くと、「髪の毛を箸で取りながら食べた」と言った。
 
来日前、私は中国で病院にかかわる管理の仕事に就いていたので、色々な病院の総務部の課長と付き合ったことがある。ある日、ある病院の総務課長が妊娠3ヵ月で流産した胎児を新聞紙で包んで事務所に持ってきた。私の同僚が友達に頼まれて課長に頼んだという。やはり栄養補給のために食べるというのであった。数人の同僚が課長を囲んで、新聞紙を開いて胎児を見ていたが、私は気持が悪くて見なかった。
 
中国大陸では現在、胎児を食べることは珍しくない。胎児を簡単に入手できるのは他でもなく「計画生育政策」を実施しているからである。
 
 
(広東省では3~4000元で嬰児スープを提供する飲食店もある)ネット写真
 
子供を「没収」する
 
2004年7月29日午後、湖南省隆回高平鎮鳳行村の楊里兵さんの妻・層志美さんが自宅で長女を生んだ。子供は「楊玲」と名付け、半年哺育した後は両親に任せ、楊さん夫婦は深圳に出稼ぎに行った。
 
2005年4月29日、高平鎮計画生育部門の劉唐山ら十数人が楊さんの家にやって来た。彼らは物凄い見幕だったので、祖母は怖くなって孫娘の楊玲ちゃんを抱いてブタ小屋に逃げ込んだが、結局幹部らに見つかってしまった。幹部らは楊さんが「社会扶養費」を払ってないため「不法幼児」だの理由で、子供を奪い去った。当日の午後、楊さんの父親は高平鎮まで追って行った。幹部らは、6000元を払わなければ子供を返さないと言った。父親はあちこち工面してやっと4000元を借りて翌日鎮政府に子供をもらいに行った。しかし、計画生育幹部らは、もう期限が過ぎたので、1万元を払っても子供は返さないと言った。
 
2005年5月のある日、楊さんが家に電話すると、父親から「子供は政府の幹部らに拉致された」と教えられた。楊さんは急いで家に戻ったが、子供はすでに計画生育部門幹部によって邵陽市社会福祉院に送られていた。楊さんは鎮政府で幹部らと口論になったが、子供を返してもらえなかったばかりか、3、4人の幹部に殴打された。計画生育部門幹部は、「この事件はすでに終わったので、これ以上追及せずに黙っていれば、これから子供を二人生むように「生育証」を出すし、罰金もしない」と楊さんに言ったという。
 
楊さんは彼らの話を無視して、邵陽市社会福祉院に子供を捜しに行った。しかし、子供はすでにいなくなっていた。後になって分かったが、子供は計画生育部門の幹部によって3000ドルでアメリカ人に売られ、子供を売った幹部は県政府から1000元の奨励金を受け取ったという。
 
その後、楊さん夫婦は数年間ずっと子供を捜していた。4年後の2009年のある日、楊さん夫婦は湖南省常徳市のあるホテルで全く知らない人に出会ったが、その人は楊さんの娘の写真を2枚見せてくれた。楊さんはその子が確かに自分の娘だと一目で分かった。
 

湖南省邵陽市隆回県では、楊さんのように子供が「没収」されて売られた人が数十人いる。計画生育部門の幹部らは「社会扶養費」を徴収するために、幼児を超生児や未婚出生児、養子という口実で拉致した上で子供の家族に「社会扶養費」を払わせて子供を請け出させる。もし、家族が決まった時間内に請け出さなければ、計画生育部門は子供の親の名義で子供の扶養権を放棄するという公文書を偽造し、子供を捨て子として邵陽市社会福祉院に送る。新たに「邵」と名付けて、合法的に外国人に養子として渡し、福利院は3000ドルの慰謝料を受け取り、計画生育幹部は1000元の奨励金を受け取る。 

(続く)

(高峰 一)

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