貧しい人のため、献身的に病気を診る医者といえば「赤ひげ先生」だが、優れた医者の代名詞として「橘井(きつせい)」という言い方もある。これは字面が示すように橘と井戸を指すが、ここには不思議に満ちた物語が秘められている。まずは約2000年前の前漢時代へとタイムスリップしよう。
話の主人公蘇耽は、中国では仙人として慕われている。ただし仙人になるまでは母と一緒に暮らしていた。蘇耽がついに仙人となり、天へと昇る直前、老いた母がひとりでも安心して暮らしていけるよう、叩けばほしいものが出てくる魔法の皿を残した。だが何よりも肝心なのは健康に生きること。実は蘇耽は近い将来、付近で疫病が流行ることを予測していた。その時に、疫病にかからないようにと準備したのが橘の木、そして井戸だった。この橘の木の葉と井戸の水を飲めば、病気で命を落とすことはないというのだ。
実際、その地域では疫病が蔓延したが、蘇耽の残した橘と井戸によって多くの命が救われた。そこで、優れた医者のことを橘井(きつせい)と呼ぶようになったのであった。
疫病の予測だが、もちろんこの蘇耽だけにとどまらない。例えば中国最古の医学書「黄帝内経」には「2003年には金疫が流行る」との記述があるそうだ。「金」は漢方で「肺」のことを指す。もうこれでお分かりだろう。2002年から2003年にかけて中国発の肺炎、SARSが世界的に大流行した。中国の古代の優れた医者は様々な超能力を備えていたというから、彼らには確かに将来起こることがはっきりと目に見えていたのかもしれない。
ところで今、日本ではほとんどの抗生物質が効かない遺伝子を持つ多剤耐性菌が発見され、人々を恐怖に陥れている。蘇耽が残した橘井(きつせい)があればいいのに、と思わずため息をついてしまう。ではなぜ、現代人には残さなかったのか。胡先生が興味深い発言をしている。モラルが低下してしまった現代人には、それを飲むだけの資格があるのか…。病気とモラルとの間にどんな関係があるというのだろう。これは示唆に富む問いかけかもしれない。