【新唐人2013年12月24日付ニュース】1960年代初め、中国では大飢饉が発生し、多くの人が餓死しました。四川省は死者が最も多い省として知られ、およそ1200万人が餓死したと言われています。中でも栄経県は四川省の中で最も死者が多く、人口9万人のうち、5万人が餓死しました。当時は食人(しょくじん)が普遍的に見られ、生き地獄のようでした。しかし、このような重大な事件について、中国当局は今に至っても一切報告をしていません。
中国のブログ作家・石豊綱さんは、四川省栄経県で起きた大飢饉の調査過程において、驚くべき死亡者数を明らかにしました。
最近、石さんは「参与」というニュースサイトに発表した文章の中で、四川省雅安市天全(てんぜん)県始陽鎮をたずね、胡慶生さんという68歳の老人と会話した内容について触れています。胡さんは大飢饉当時に起きた、見るに堪えない様々な事実を思い出しました。
「人民公社」が成立した時14歳だった胡さんは、物心がついていました。当時、胡さんの家族は“始陽人民公社労働管理区第6食堂”に属していました。設立当時は、食堂にはまだ食糧がありました。ところが1959年の後半以降、食堂の食べ物はますます少なくなり、多くの人が餓死したそうです。
胡さんにとって最も強く心に残った出来事は、1961年後半、隣人が妻を殺して食べ、その後、「永遠にさようなら」と叫んでボートの上から川に飛び込み、自ら溺死したことでした。
しかし、当時雅安地区で被害が最も深刻だったのは天全県ではなく、栄経県と芦山(ろざん)県だったといいます。栄経県の死者は四川省で最も多く、人口9万人のうち、5万人が餓死。胡さんは調査の事実を根拠に、極左の人々の言う“四川省の餓死者はゼロ、全国の死亡者数も100万人未満”というでたらめな理論に反論することが出来ると述べています。
胡さんは、月日が流れるとともに“三年大飢饉”の記憶が薄れつつあると感じています。当時の生存者は既に亡くなっているか高齢、或いは様々な原因でほとんど事実を公表していません。事件の真相を社会に知ってもらうため、あの時代の体験者、生存者として、経験した苦難を如実に記録し、後世に残す責任があると胡さんは話します。
胡さんは大飢饉が発生したあの3年間の労働管理区での死者の名前を集め、“天全県始陽人民公社労働管理区第6食堂”の死亡者数の統計を出しました。
「元右派」である中国の作家・鉄流さんは、新唐人の取材の際、大飢饉の時、強制労働収容所にいたことを明らかにしました。
中国作家 鉄流氏
「当時は全県のおよそ半数が餓死し、生き残ったのは50%。当時私は強制労働所—沙田農場にいました。60キロあった体重が40〜45キロに減りました。餓死者が出ると、最初は一人ずつ穴を掘りましたが、しまいには大穴を掘り、一度に十数人を埋葬しました。友人の一人がそこで死者を埋める仕事をしていましたが、一日十数人の餓死者を埋めていました。これは普通のことでした」
オランダ歴史学者で香港大学歴史学部教授のフランク・ディケーター氏が執筆した書籍『毛沢東の大飢饉~史上最も悲惨で破壊的な人災1958~1962年』では、毛沢東の指揮の下、4500万人がこの飢饉で死亡したと指摘。この本は2012年にイギリスBBCのサミュエル・ジョンソン賞を受賞しています。
その後、彼の助手で70年代四川省生まれの周遜さんも『中国大飢饉1958~1962(The Great Famine in China,1958-1962)』という英文著書をイェール大学出版社から出版しています。本には1996年から2000年までの間、数十の省、県レベルの公文書館で収集した多くの真実の資料が記載されており、中には人が人を食べた悲惨な事件も多く含まれています。
しかし、中国の「大飢饉」は今もなお中国共産党のタブーです。政府は沈黙或いは隠ぺいし、民間ですらこの歴史についての言及に消極的です。餓死者が出た家庭や人を食べたことのある多くの家庭は、沈黙を選んでいます。
しかし周さんは、「ユダヤ人大虐殺については世界中が知っているのに、中国の大飢饉を知っている人はごくわずか。歴史家として中国で何が起きたのかを世界に知らせることは自分の職責である」と考えています。
中国共産党が“三年大飢饉”で幾千万ものの人民が餓死したことを認めたくなくても、胡慶生さんの死亡者リストは私たちに、これらの人々が確かにこの世に生まれ、また、声もなく死んでいったことを伝えています。胡さんは、現代中国人が誠実に勇気をもって歴史に向き合うことを期待し、死者の安らかな眠りを望んでいます。
新唐人テレビがお伝えしました。
http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2013/12/18/atext1026336.html(中国語)
(翻訳/赤平 ナレーター/萩野 映像編集/工)