【新唐人日本2011年11月28日付ニュース】ハワイで開かれた2011年アジア太平洋経済協力会議APECが閉幕。ハワイのベトナム人組織・“フリーベトナム”はこの頃、共産党の代表を歓迎しないと声明を発表しました。
APEC閉幕の際、ハワイのベトナム人組織・フリーベトナムは声明を発表し、ベトナム共産党および中国共産党の代表を歓迎しないと示しました。
Nguyen Chuongさん:「我々はベトナムと中国の共産党を歓迎しません。我々は彼らの被害者です。私の家族は多くの苦労をしました。家族の多くが軍人で多くが集中キャンプに入れられ、少なくとも1人が死亡しました」
我々は1975年以降、共産党から逃れるためにアメリカに来たフリーベトナムの役員6人を取材しました。
Paul Hanh Nguyenさん:「彼らは私のお爺の数千年住んでいた土地を奪いました。やむなくベトナムの北部から南部に逃れました。残った妹は 海上で命を落としました」
Tong Maさん:「私の父は若い時 中国からベトナムに逃れました。共産党が中国に入ったからです。私はベトナムで生まれ育ちました。1975年共産党に占領されるまでは幸せな生活をしていました」
Thuy Hongさん:「私の26歳の姉と夫 7歳の娘は不幸でした。一家と兄も逃亡中 海上で命を落としました。もう1人の姉は難民キャンプで12年間生活し、後に豪州に逃れました。共産党によって一家がばらばらになり、祖国も災難を蒙っています。多すぎる苦難を言い出すと涙が止まりません」
1975年以降、多くのベトナム人が漁船で命賭けの逃亡を図りました。データによると、150万人がベトナムから逃亡し、25万人が死亡。アメリカが受け入れたベトナム人難民は80万あまりだそうです。
Richard Tranさん:「両親は中国で生まれ育ち、毛沢東が統治後 中国から逃げたものの再び 共産党の天下に来ました。私の家族は4回離れ離れになりました」
トランさんは1978年、ベトナムから漁船に乗ってマレーシアに逃れ、その後フィリピンを経由し、ハワイに来たそうです。家族も4回に分けて、ベトナムから逃げ出しました。
Richard Tranさん:「母は不幸でした。逃亡の途中 タイの海賊に会い、全ての財物を盗られたうえ 殺されました」
Enga Matさん:「もし まだベトナムに居ていたら、苦労したでしょう」
1975年、米軍の撤退後、南ベトナムは援助が得られなくなり、武器も軍備も底をつきました。多くの軍人は、将軍から普通の兵士まで自殺を選びました。
Nguyen Chuongさん:「彼らには将来が見えたのです それは 死亡でした。だから 共産党の捕虜になる前に死を選んだのです」
ベトナム共産党から逃れた人は、幸運でした。
Tong Maさん:「彼らは米国に来ました。我々はベトナム人のまとめに努めています。我々は共産党の統治から逃れたので“フリーベトナム”と名づけました」
現在、“フリーベトナム”はアメリカ中に広がっています。
新唐人テレビがお伝えしました。