【新唐人2013年3月5日付ニュース】台湾の国民党栄誉主席・連戦氏の3日間の大陸訪問は、再度中国のネット上で注目され、関連歴史が討論の対象となっています。今日の中国では教育、医療、住宅は民生問題の三つの大山です。中でも、とりわけ注目されるのが教育です。
一方、中国共産党当局の教育産業化がもたらした一連の問題が、水面上に浮上しつつあります。最も目立つのが、“学士が増えたのに、大師は消えた”現象です。歴史を振り返ってみると、8年にわたる抗日戦争期間中、教育事業が後退するのは当たり前のはずでしたが、中華民国時期の中国では逆の現象が見られ、戦時中にもかかわらず、多くの傑出した学者を輩出しました。民国政府はどのようにしてこのような結果を生みだしたのでしょうか。
1937年、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を引き金に、日中戦争が始まりました。
この時期、軍事費はおのずと民国政府の最も膨大な支出となりました。
一方、戦時中の慌ただしい世相の中、教育は一体どのような役割を果たすべきなのか。民国政府内部でも意見が分かれていました。
“抗日戦争を完全優先する非常時期教育に切り替えるべきか”。それとも“普段通りの常態化教育を続けるべきか”。
1939年3月、蒋介石主席はこの議論に結論を出し、日本と闘いながら、教育を続ける方針を決めました。
これ以降、最も重要な税収源であった東南工業基地と港を失うといった憂き目に遭いながら、民国政府は依然として絶対多数の中小学生の学費を免除し、無料の給食と医療保障を提供。
厳しい戦争が続き、政府財政に崩壊の兆しが現れ始めた1944年。この年も依然公費留学生を外国に送り出しました。
1945年になると、大中小学生の人数は戦前よりも増えました。うち、中等教育は戦前の38万人の在校生から抗日戦争終了後には126万にまで増えました。高等教育の在校生は、4万人から8万人に増加。
終戦から68年。かつて命がけで中国の国土を守った国軍は、その後の国共内戦によって台湾に追いやられました。8年の苦しい抗日戦争の期間中、教育費は軍事費に次ぐ財政支出でした。戦時中でありながら、二人のノーベル物理学受賞者・楊振寧(よう しんねい)と李政道(り せいどう)を作り上げました。
しかし、1949年以降、共産党が政権を取ってからの数十年の間、教育は平和時期にも関わらず“奇跡的な後退”を見せました。文化大革命などといった数々の政治運動は、1代また1代の有識者を破滅に追いやりました。
近年、教育業がある程度発展したとはいえ、財政に占める割合は依然として満足のいくものではありません。
2000年から2009年までの間、台湾の公共教育経費がGDPに占める割合はずっと4%以上を保っています。一方の中国大陸の割合は、2%~3%台の間をさまよっています。
学問を教え、人材を育てることは、百年がかりの大計画です。もし抗日戦争期間中に、民国政府が教育事業を死守していなかったら、今日の中国はどうなっていたのでしょうか。
教育が産業化された現代中国で、腐敗は社会のあらゆる領域に浸透し、教育界も例外ではありません。金銭の匂いが充満している学術界がはたしてどのような“未来”を作り出すことができるのか、疑問に思う人は少なくないでしょう。
新唐人テレビがお伝えしました。
http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2013/02/28/atext854549.html (中国語)
(翻訳/坂本 ナレーター/村上 映像編集/工)