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台湾金馬奨最優秀ドキュメンタリー『大同』と中国の現実

2016年01月29日
台湾金馬奨最優秀ドキュメンタリー『大同』と中国の現実

【新唐人2016年1月29付日ニュース】

   

台湾金馬奨最優秀ドキュメンタリー『大同』と中国の現実

 

 彼が50万人市民の家屋を取り壊しても、市民達の一部はまだ彼に感謝している。

 

                                  『大同』
 
 

 第52回の台湾金馬奨(Golden Horse Film Festival and Awards)の最優秀ドキュメンタリー映画は大方の予想に反して、『大同』(The Chinese Mayor)という中国映画が獲得した。このドキュメンタリーは、海外でもいくつか論議を誘発した。これらの評論の中からはっきり分かるのは、中国の政治理念の全世界の民主主義国家との間の大きな違いであり、今の中国の政治文化の現状についての深刻な理解と認識をすることができる。

 

 『大同』が描いたのは、次のようなストーリーである。中国山西省大同市市長の耿彦波は 、2008年に赴任して程なく大同市の古都を保護する工事を宣言した。工事の計画は、古都にあるすべての現代建築を取り壊し、伝統都市の構造を回復することであった。映画の始まりは、黄土の土煙が一面に充満した取り壊し工事現場が目の前に現れ、50万の大同市民が代々居住する数千棟の家屋が疾風に枯れ葉が巻かれるように一気に取り壊されてしまうというものである。

 

プロデューサーの趙琦氏は、元々中国官僚界へのマイナス印象を取り除いて、国際的にイメージチェンジしたいという目的を持っていたが、海外で上演した後、意外にも逆効果を引き起こした。この映画を観た外国人達は、困惑する様子が隠せない。その中のスウェーデン観客は、中国の官吏が民衆の住宅をスピーディかつ「効率的に」破壊した力に驚き、「誰が耿彦波氏に このような50万人の家屋を取り壊すという巨大な 権力を与えたのか」と質問する。 「こうした場合は、専門家にその必要性を論証し、住民の意見を聴くことがあるのか? 」、「なぜあんなに多くの住民達に適当な住宅と場所を与えずに工事をするのか?」、「 市長は、住宅を取り壊し、立ち退かせる際のリスクを考えたことがあるのか? 」

 

 民主主義の原則は、多数で決定すると同時に少数者の権利保障を確保することである。

 

まず、民主政治制度の中核原則を再確認する。民主主義の話になると、普通、選挙と投票を思い出す。多数者が勝って、政府を構成する。 間違いなく、多数決は民主主義の重要な特徴だが、それ以外に、民主主義社会では、少数者の権利も法律と制度の保障を受けなければならない。いかなる場合でも、自ら選出・任命した政府組織がほかの団体、個人を圧迫する権限はどこにもない。

 

ただ、少数者の基本的な権利と自由が保障されることで、少数者はやっとその政府が自分達を保護してくれることを信じるようになる。このような信頼があった上で、これらの集団は国家の民主メカニズムに参与し、運営することができ、この結果、社会への貢献が出来る一環ともなる。もし、これら少数者が当然受けるべき権利保障を得られなかった場合、彼らは消極的に抵抗するか、さらに厳重な後遺症としては、おそらく怒りを生じ、社会の時限爆弾になる恐れがある。

 

 個人の視点から言えば、誰でも少数派になりうる。すなわち、どんな人種、信仰、政治的イデオロギー 、個人の価値観、地理上の位置或いは収入水準から見ても、誰に拘らず自分がずっと「多数」で「主流」でいることは難しいことである。その時、我々は自分が犠牲にされることを望むであろうか?

 

しかし、私達がこの映画で分かるように、家屋をすでに取り壊された市民たちが、なんとまだ賠償金をもらっていない。書面の補償協議書のようなものすら何ももらっていない。立ち退き世帯の大部分は自分の貯金を崩すしかない。また、彼らは、借金にまで追い込まれ、自分で賃貸部屋に住み込んで避難し、順番に新しい住宅の割り当てを長く待ち続けるのだ。このような強制的な立ち退きは大量の再定住と補償問題を引き起こし 、適切な住居と合理的な補償が得られないため、家を取り壊された人々は自ら焼身し、飛び降り自殺などの手段で対抗するに至る。これは少数者と弱者が保護されず、命の犠牲まで強いられた結果である。

 怖いのは、中国人にとってはこのようなひどい事に自分あるいは友人の身が遭わない保証はどこにもないということだ。

 

 公民文化について、中国人がどれほど遠くかけ離れているかが分かる以外に、『大同』という映画から、大多数の中国の民衆は公民としての自覚が無く、受動的に一切の出来事を受け入れるしかない、「人民の親」である役人達が行う公衆政策に、民衆は口を出す余地がないということがわかる。

 

この現象に対して、20世紀中葉の政治文化についての指導的学者であるAlmondとVerbaの説明を見てみよう。この2人の学者は、公民の文化について国境を越えて研究した。彼らは、よくある政治文化のタイプを3種類に分類した。すなわち、「参与型政治文化」、「 臣属型政治文化」、 「域型の政治文化」である。 「参与型の政治文化」は、下から上へ、参与決定する政治文化である。人々は自分の役割と能力がはっきり分かっている。政府に対して思い切り要求したり、反対したり、或は支持したりする。人々は、公務への参与の主導権を握り、理性的に公共(大衆)の議題について議論することができる。「臣属型政治文化」は、上から下へ、上の命令に服従させる方式の政治態度である。人民が権威に従う、政策を支持する、国家に忠誠を尽くす。通常は、受動的な参与で、自分が能動的に政策に影響することができると思っていない。政府に対していくつかの希望を求めるだけの勇気がない。「地域型の政治文化」は、人々がほとんど政府の存在する意味と目的を知らない。ただ、地方政府だけを認める。

 

このように見ると、中国の大多数の普通の民衆は「臣属型の政治文化」に属している。しかし、AlmondとVerbaは、「参与型の政治文化」が最も民主的で理想に近いと考えている。「公民文化」は上記の3種類のタイプの総合だ。

 

 今の問題は、中国社会には「参与型の政治文化」は存在しておらず、そのため「公民文化」を身につけるのにはとても長い時間が掛かり、本当の民主主義へ辿りつくまでには遥か遠い道のりになる。

 

 耿氏が突然移動させられる理由はどこにもない。

 

 民主主義の話はさて置き、一歩下がれば、耿氏が中国の腐敗と堕落一色の官吏社会の中で仕事熱心だとするにしても、また、一部の大同市民の信用を勝ち取ったとしても、このほんの少しの信用さえ、共産党政府にとっては恐怖と脅威を感じ、もし、いわゆるそびえ立つ政治のスターになると、そのスターを操りにくくなる恐れがある訳だ。山西省委員会は、大同市で進行中の都市計画改造を配慮せず、2013年2月、突然、耿氏を大同市から太原市へ移転、赴任させた。

 

 中国共産党政府の問題は、この政党の言いなりになることしかないこと、彼らがどの人を少数者に入れるかまで決定し、大きな私のためなら小さい私を犠牲にしなければならないということだ。しかし、このような決定は安定性が欠けている。今日は、耿彦波のような人に能力を発揮させ、明日は口実をでっち上げ耿彦波を左遷させることもできる訳だ。党組織の権力はずっと個人の上にある。個人がどんな優れた能力の持ち主であっても、彼の力は党組織を超越することは不可能である。中国共産党が、今までやったことは、ただ政権を維持するためのものでしかなかった。だから、この政権が本当に国民のために考えてくれると信じたら、「木に縁りて魚を求める」のと同じことだ。

 

 中国の未来が本当に民主主義に向かって歩むのなら、徹底的に共産党政府を捨てるしかない。政治制度、公民文化と法治の観念を確立し、選挙に向かって,一連の正当な手順に一致するような政治規範を構築し、党と政府を分離させ、人民に選出された指導者は法律の定めにそって任期を終え、同時に少数者と弱い集団の権利を保障し、民衆の間にお互いの信頼と助け合いのできる社会を再建することだ。

 

http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2015/12/02/a1239243.html (中国語)

 (作者/李靖宇 翻訳/姜)

 

Youtubeで映画『大同』を観られる。 

https://www.youtube.com/watch?v=NU7O0P240cU

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