今回李さんが紹介するのは、昔のあるご婦人の物語だ。40歳ほどのその婦人はずっと病に悩まされていたが、どの医者も治すことが出来ないでいた。そんなある日、名医に出会った婦人は思わず「治してくれるのなら大金を支払う」と約束する。そしてこの名医の治療の下、婦人は病の苦しみから解放された。ところが病気が治った途端、婦人は態度を一変し、約束した金額の半分しか払わないと言いのけた。これまで腹黒い医者を多く見てきた婦人は、医者に真剣に治療してもらうため、ハッタリをきかせたのだった。
現在の日本であれば、費用が医者との交渉で決まることはほとんどないだろう。だからこれは遠い過去の話、あるいは異国の物語に過ぎないと思われるかもしれない。だが実は、この物語は医者を信じることが出来ない婦人、つまり医者への不信がテーマとなっている。これは我々にとって、決して他人事ではない。
医者不信という言葉が生まれてもう久しいが、もちろんこれは医者と患者に限ったことではないだろう。例えば、警察官といえばまず信頼の置ける職業であった。だからこそ、警察官の制服を見ると多くの日本人は安心感を覚え、信頼を託す。そのような信頼感があるからこそ、警察官への成りすましを利用した振り込め詐欺のような事件が起こるのだろう。
だが昨今のように、警察官という身分を装った事件、悪用した事件が立て続けに起これば、人々の警察官に対する不信は高まっていくに違いない。そして、ここから人に対する不信が広く深く根を張っていくはずだ。信頼すべき警察官でさえ、偽者かもしれない。一体何が本物で、何を信じるべきなのか。こうして人は、自分は騙されないようにと誰に対しても警戒感を抱くようになる。誰もが信じられない世の中、これは悲哀に他ならない。李さんが今回語ってくれた話、ここから我々が汲み取るべき教訓は非常に重く深いのだ。