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朱丹溪――遅咲きの名医

2010年09月05日

40過ぎにようやく師事し、医学を本格的に学び始める。社会人大学院など、社会に出てからも学びやすい環境が整ってきた今日の日本でも、40過ぎとなればまれな例といえよう。だが、これが700年前だったら?平均寿命を間近にしたお年寄りが医者を志すのに等しい。だが、確かに古代中国にはそんな一大決心をしたひとりの男がいた。それが朱丹溪である。

中国の古代、今のような大学の医学部はもちろん存在しない。医を学ぶには、まずは師を探すことから始まる。便利な電話帳も住所録も、ましてや検索サイトもなかった時代、本物の師を探すことだけでも容易ではなかったはずだ。とりわけ朱丹溪の場合は、40歳と当時としては高齢だったので困難を極めた。そんな朱丹溪を弟子として受け入れたのが羅知悌(らちてい)である。最初は気が進まなかった羅知悌ではあるが、来る日も来る日も門の前にひざまずき弟子入りを懇願する朱丹溪の熱意に心を動かされた。さらに、朱丹溪とじかに接するうちに、朱丹溪の誠実で善良な人柄が気に入り、自身の持つ医学の知識や術(すべ)を惜しげもなく伝えたのだった。
 
こうして多くの苦労の末に医を学ぶことができた朱丹溪であったが、実際、患者を診るようになってからも、師の期待を裏切ることはなかった。例えば、こんな逸話がある。朱丹溪はある時、ひとりの未亡人から子供の往診を頼まれた。急ぎ診察へ駆けつけようとしたが、あいにくの大雨で、未亡人の家へ向かう川が増水しあふれていた。必死に川を渡りきったものの、朱丹溪が到着した時には、その子はもう息絶えていた。悲嘆に暮れる未亡人を前に、朱丹溪が懸命の蘇生をすると、その子は奇跡的に息を吹き返した。感極まった未亡人は多額の謝礼を払うと申し出たが、朱丹溪は断る。そして、どうしても謝礼をというのなら、この川――「婺」に橋をかけてほしいと告げる。これからは急病人が出てもすぐに医者が駆けつけられるように、である。こうして川にかけられた橋は「貫婺橋(かんじょきょう)」と名づけられた。
 
実は朱丹溪は、中国の金・元時代の名医、つまり金元四大家のひとりとしてよく知られている。「陽常有余陰常不足」という新たな理論を打ち立て、漢方医学に多大な貢献をしたが、もうひとつ忘れてはならないのは朱丹溪の徳と人柄だ。これらがあったからこそ、本物の師から伝授を受けることが出来、患者を診ていく実践の中で、自身の医を高めることができたのである。これも我々に残してくれた貴重な財産といえよう。

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